カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)
カール2世(Karl II., 1741年10月10日 - 1816年11月6日)は、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の初代大公(在位:1816年)。初めはメクレンブルク=シュトレーリッツ公(在位:1794年 - 1816年)。全名はカール・ルートヴィヒ・フリードリヒ(Karl Ludwig Friedrich)。メクレンブルク=シュトレーリッツ公子カールの次男。 来歴1741年10月10日、アドルフ・フリードリヒ2世の次男カールとその妻であったザクセン=ヒルトブルクハウゼン公エルンスト・フリードリヒ1世の娘エリーザベト・アルベルティーネ(1713年 - 1761年)の間に第6子としてミロー(メクレンブルク=フォアポンメルン州メクレンブルク=シュトレーリッツ郡)で生まれた。 初めハノーファー選帝侯国の陸軍に仕官し、中将(Generalleutnant)に任じられていた。妹シャルロッテ(英語名 シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ)がイギリス王ジョージ3世(ハノーファー選帝侯ゲオルク3世)と結婚すると、義弟によってハノーファーの総督に任命された。 アドルフ・フリードリヒ2世の後を嗣いだ伯父アドルフ・フリードリヒ3世が男子のないまま1752年に歿すると、カールの兄アドルフ・フリードリヒ4世が公位を嗣いだ。アドルフ・フリードリヒ4世は子供がいないまま死去したため、1794年にカールが公位に即いた。 治世中、カール2世は農業技術の発展に努め、警察組織を設立し、義務教育を導入した。1806年にはライン同盟に加盟し、ウィーン会議の決定によって彼の公国は大公国となった。1816年11月6日にノイシュトレーリッツ(メクレンブルク=フォアポンメルン州メクレンブルク=シュトレーリッツ郡)で死去し、成人した最年長の息子であるゲオルクが大公位を嗣いだ。 子女カール2世は生涯に2度結婚している。最初の妃であるヘッセン=ダルムシュタット方伯子ゲオルク・ヴィルヘルムの娘フリーデリケ・カロリーネ・ルイーゼ(1752年 - 1782年)とは1768年9月18日にダルムシュタットで結婚し、彼女との間に以下の4男6女をもうけた。
フリーデリケと死別すると、カール2世は彼女の妹であるシャルロッテ(1755年 - 1785年)と結婚した。後妻との間には以下の1男をもうけた。
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