マーガレット・ブラウン
マーガレット・ブラウン(Margaret Brown 、旧姓 トビン(Tobin)、1867年7月18日 - 1932年10月26日)は、アメリカのソーシャライト、フィランソロピスト、活動家。 1912年のタイタニック号沈没事故の際、生存者捜索のため救命ボート6号を戻し、女性生存者の代表格として有名になった[1]。死後、モリー・ブラウン、不沈のモリー・ブラウン(Unsinkable Molly Brown)の通称でよく知られるようになったが、生前にモリーと呼ばれることはなかった。友人からはマギーと呼ばれた。 前半生1867年7月18日、ミズーリ州ハンニバルで、父ジョン・トビン(1820–1899)と母ジョアンナ・コリンズ(1825–1905)の娘として生まれた。父はアイルランド移民であり、ハンニバルのガス工場で働いていた[2]。 兄弟はダニエル(1863年生まれ)、マーガレット(1867年生まれ)、ウィリアム(1869年生まれ)、ヘレン(1871年生まれ)の4人[3]。さらに異母異父姉妹2人がおり、キャサリン・ビリジット・トビンは父の連れ子で、メアリー・アン・コリンズは母の連れ子である。 伯母のメアリー・オリアリー(Mary O'Leary)が経営する私立学校で13歳まで学んだ後、ハンニバルのガース煙草工場で働き、タバコ葉から茎を取り除く作業にあたった[2][3]。 1883年に異父姉妹メアリー・アン・コリンズがジャック・ランドリガンと結婚し、コロラド州レッドヴィルに移住。彼らはそこで鍛冶屋を始めた[3]。1886年にマーガレットも彼らに呼ばれてレッドヴィルへ移住した[2]。彼女は、同地の百貨店「ダニエル・アンド・フィッシャー」のカーペットや織物部門で働くようになった[2][3]。 金持ちと結婚したがっていたが、1886年初夏に親がアイルランド移民である鉱夫ジェイムズ・ジョゼフ・ブラウン(1854–1922)と出会い、1886年9月1日、レッドヴィルの受胎告知教会で結婚式を挙げた[2][3]。ジェイムズはJ.J.と呼ばれ、進取に富んだ気性で、独力で勉強していた。
と語っている。 彼らには2人の子が生まれた。
一家が莫大な富を得たきっかけは、J.J.の鉱山工学の技術が、堅固な原鉱に割れ目を入れるのに役立つとわかったことである。J.J.の雇用主アイベックス鉱山会社(Ibex Mining Company)は、リトル・ジョニー鉱山(Little Jonny)でその技術を役立てるべく、資本金から12,500株をJ.J.に譲渡し、理事の席を提供した。そしてリトル・ジョニー鉱山で金と銀が発掘されたことで一気に富裕となった[2]。 レッドヴィルでは当初、女性の権利獲得に情熱を燃やし、全米女性参政権協会のコロラド支部の設立を助け、鉱夫の家族を援助するスープ・キッチンで働いた[3]。 1894年4月6日にブラウン一家はコロラド州・デンバー・ペンシルバニア通り(Pennsylvania Street)に移住[3]。デンバー女性クラブ(Denver Woman's Club)の創立メンバーとなり、成人教育と慈善を通して、女性の生活の改善に努めた[3]。 当時は女性に参政権が認められていない時代だったが、アメリカ合衆国上院に2度立候補している。それに当選すれば例え議員になれずとも女性の議員資格を認める契機になると考えてのことだったが、結局2度とも落選の憂き目を見た[4]。 またニューヨーク州のカーネギー研究所にも出席し、文学や言語や脚本を学んだ[3]。 結婚生活23年で非公式な別居合意に達し、1909年署名して別々の道を歩むことになった。二人が和解することはなかったが離婚はせず、生涯を通じて互いを気遣った。この合意によりマーガレットは示談金を手にし、デンバーのペンシルベニア通りにある家も所有し続けた。また旅行や慈善活動を続けるための費用を、月に700ドル受け取ることになった。 資金調達を援助したデンバーの無原罪聖母大聖堂は1911年に完成。判事ベン・リンジーとともに、貧しい子供たちを助け、アメリカ合衆国初めての少年裁判所の設立させた[3]。デンバーの貧しい子供たちのための遊び場と学校を建立することにも尽力した[2]。 彼女は生涯を通してよく旅行した[2]。1912年1月24日にオリンピック号に乗ってヨーロッパへ向かった。同船内でジョン・ジェイコブ・アスター4世とマデリン・アスターの夫妻と親しくなった。二人のエジプト旅行、イタリア旅行、パリ旅行に同道したが、孫の病気を聞いて急遽タイタニック号でアメリカへ帰国することを決意した[5]。 タイタニック号乗船![]() マーガレットはフランスのシェルブールから客船タイタニックに一等船客として乗船し[6]、1912年4月15日、氷山に衝突して沈没する。 他の乗客が救命艇に乗り込むのを助けていたが、最終的に救命艇6号に乗って船を離れることを承諾する[1]。沈没後、他の女性乗客数名とともに救命艇6号を指示し、ボートを指揮していた操舵員ロバート・ヒッチェンスに有無を言わさず「暖をとるため」ボートを漕ぎ、水中の生存者を探し出すために戻った。[1]。しかし生存者発見に成功したのは救命艇12号だけだった[1]。カルパチア号に救助、収容された際も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮した。生存者を捜すために救命艇6号を戻らせようと努力したところから、ヒロインと見なされるようになった[1]。 タイタニック号生存者としての名声は、労働者と女性の権利、子どもの教育や読み書き能力、歴史の保存といった、深く心にかけた問題を推進するのに役立った。 後半生1922年9月5日にJ.J.が死去した際は、新聞に「J.J.ブラウンほど高潔で、心の広い、すばらしい男性はいなかった」と語っている。J.J.は遺言を残さず死去したため、2人の子供とは、財産の継承をめぐって5年間争った。彼らの浪費のため、J.J.の遺産はたった238,000ドルと評価された。マーガレットは現金と証券とで20,000ドルを受け取ることになり、100,000ドルの信託財産の利子が彼女の名で用意された。2人の子供はその残りを受け取った。これ以降亡くなるまで、2人の子供に会うことはなかった。 ![]() 第一次世界大戦中のフランスではアメリカ委員会とともに、荒廃したフランスのため、最前線より後ろの地域を立て直しフランス人やアメリカ人兵士の傷病者を助けた。アメリカで慈善を含め、そのよき市民権的行動のため、フランスのレジオンドヌール勲章を授けられた。人生最後の数年間は、女優業にも取り組んだ。 睡眠中の発作により65歳で死去。その死は世界大恐慌の間のことであり、2人の子供は彼女の財産を6,000ドルで売却した。ニューヨーク州ウェストベリーのホリールード墓地に埋葬されている。 人物彼女の生涯の夢は、デンバー社交界のメンバー、すなわち「聖なる36人衆(Sacred Thirty-Six)」と呼ばれた人々の子孫に加わることだったが、デンバー社交界メンバーは彼女の荒っぽさを見ていると自分たちの卑しい出自を思い出すため、彼女のことを「成り上がり者」として徹底的に拒絶した[7]。 モリーの夫JJブラウンは妻のように社交界入りを夢見ることはなく、労働者としてのルーツを好んだため、二人の距離は広がり、最終的には別居することになった[7]。 伝説
PortrayalsCopied to translate from en:Margaret Brown enwp as of 13:49 (UTC) June 8, 2019 by Noq.
取り上げられた映画
脚注
参考文献
外部リンク |
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