マキノ家は、山国隊西軍沙汰人・正五位藤野齋の非嫡出子で、娘義太夫・竹本弥奈太夫こと牧野彌奈の子、「日本映画の父」とされる映画監督、映画プロデューサーのマキノ省三(1878年(明治11年) - 1929年(昭和4年))を祖とする日本の映画・芸能の一家である。
概要
「マキノ省三」こと牧野省三の父・藤野齋は、もともとは漢方医であったが、京都「時代祭」で知られる勤王派農兵隊「山国隊」の第一陣である西軍を率い、1868年(慶応4年)、戊辰戦争を戦った。1878年(明治11年)、藤野と牧野彌奈の間に生まれた省三は、母の女手一つで育てられ、長じて、牧野家の敷地にあった芝居小屋「千本座」を買収、経営にあたった。
1908年(明治41年)、千本座で活動写真の興行を行なっていた横田商会の横田永之助の依頼で始めたのが、省三の、つまりはマキノ家の映画とのかかわりの最初であった。また、この年に長男・正唯(のちの映画監督マキノ雅弘)が生まれている。1912年(大正元年)の横田商会ら4社合併による日活の設立に際して、牧野は同社に入社し、映画監督となった。このころから、子役として実子たちを出演させ始める。1919年(大正8年)7月10日、「ミカド商会」を設立して独立、横田の抵抗に会い、一旦日活に吸収されるが、1921年(大正10年)6月、自宅に牧野商会、等持院に撮影所および牧野教育映画製作所を設立、それがのちの1923年(大正12年)のマキノ映画製作所、1925年(大正14年)、花園天授ヶ丘のマキノ・プロダクションへと発展していく。
この過程を通じて、牧野は「マキノ省三」を名乗り、子役から青年俳優・女優、映画監督へと育った自らの子女たちに、「マキノ」の姓を冠してゆく。こうして「マキノ家」は生まれた。
1990年代、省三の孫、マキノ雅弘の長男・マキノ正幸が沖縄アクターズスクールから、安室奈美恵、SPEEDらをメジャーシーンに送り込んだ。2006年(平成18年)、省三の孫・津川雅彦が映画『寝ずの番』を監督し、「マキノ雅彦」を名乗る。
一族
系譜
マキノ青年派
省三が経営したマキノ・プロダクションでは、「マキノ青年派」というアイドル的くくりで若手スターを売り出したことがあり、その際に、省三が彼らに「マキノ」の姓を冠したが、どの人物も「マキノ家」との血縁・婚姻、あるいは養子の関係もない。
このうち「マキノ梅太郎」こと中村梅太郎は「マキノ青年派」売り出し中の1928年(昭和3年)4月に退社し、田川通(のちの大河内龍)が「二代目マキノ梅太郎」となった。したがって、マキノ家ではないマキノ姓の俳優は都合6人存在したことになる。また、マキノ正美は、のちに俳優を廃業して実業家に転向したのちも、省三に名づけられた名を、生涯を通じて名乗った[3]。
関連事項
脚注
参考文献
外部リンク