ドリームプラネット・インターナショナル・スクール
DREAM PLANET INTERNATIONAL SCHOOL(ドリームプラネット・インターナショナル・スクール)は、かつて沖縄に存在したインターナショナル・スクール。沖縄アクターズスクールの校長だったマキノ正幸[1]により設立された。日本国内においてインターナショナルスクールは、一部のものが学校教育法第83条に基づく「各種学校」として都道府県知事の認可を受けている程度で、その他の多くは無認可校である。ドリームプラネットも無認可校のひとつで、登記上も株式会社である[注釈 1]。2023年9月現在、スクールとしての活動は既に停止しているものの、法人としては廃業しておらず、沖縄アクターズスクールと同じ所在地に登記されている。 この項目では、ドリームプラネット・インターナショナル・スクール(以下、ドリームプラネット)全体の歴史と概要に関して説明するが、2001年9月を境にスクールのシステムが変わるため、2つの項目に大別される。また、ドリームプラネットが普及を試みたスポーツ「サーフボール」については、当該記事を参照すること。 設立の経緯1990年代後半、マキノ正幸(以下、マキノ)が経営していた沖縄アクターズスクール(以下、アクターズ)は、安室奈美恵の大ブレイクをきっかけに隆盛を誇っていた。スターを夢見てレッスンに励む少年少女たちと向き合う中で「子どもたちが、もっと自分の才能を花開かせる環境や場をつくることが、僕の最大にして至福の目標になっていた[2]」マキノは、活動のフィールドを「芸能」から「教育」に移していった。 「学歴や偏差値教育に乗っても、結局、子どもたちは活かされない。学校教育にこだわるよりも、その子のもっている才能を徹底的に伸ばしたほうがいい[3]」と考えていたマキノの元に、1998年5月、松下政経塾の塾生であった当時26歳の白井智子が「子どもが輝きを取り戻せる学校をつくりたい」と連絡を入れた[1]ことがきっかけとなり「新しい学校[4]」設立への動きが具体化していった。 マキノは、白井を「僕の教育理念を実現するのに最もふさわしい才能を持った人間[5]」と評価し、新しい学校の校長就任を決定した[注釈 2]。白井は、学校法人としての認可を目指していたが、マキノの「学校法人などというものにこだわっている時間はない。まず場所をつくることが先決[6]」の考えに従い断念。フリースクールとして経営していくことになった。 マスコミを通しての事前キャンペーンの反響もあり、1200人から学校への問い合わせがあり、1998年10月20日、学校案内と願書を発送[7]。10日間で50通以上の願書が届けられた[7]。 開校予定地の問題入学希望者とその親との面接[8]が続く一方、校舎の場所探しは難航した[9]。「文部省が認めない学校なんてとんでもない」「そんな学校ができたら、不良の茶髪が集まってきて風紀を乱す」などの中傷とともに、地元の反対運動が起き、行政が誘致しても住民が反対[10]するなどしたため、候補地は北中城村から金武町へと移り[11]、最終的には恩納村のムーンビーチホテルが入居を承諾したため[12]、開校への準備が整った。 開校当初の概要(この節の出典:[13])
教育理念教育スタイル
クラス編成
開校当初の時間割例
校長交代と校舎移転マキノは学校の運営を校長の白井に任せていたが、開校してしばらくすると、ドリームプラネットからマキノの名前・存在はほとんど消え、「創始者」と位置付けられたマキノにとってドリームプラネットは近づき難い場所となっていった[33]。マキノがドリームプラネットから離れている間に学校の様子は悪化、入学当時は期待と希望でいっぱいだった生徒たちは、何も求めなくなってしまった[34]。 2001年3月、アメリカ出身で当時24歳の村井優紀が沖縄に移住[35]、ドリームプラネットでマキノの通訳[36]・インストラクターとして勤務[注釈 4]。 2001年9月、白井は校長職からインストラクターに降格となり、のちに退職[38]。マキノ自らドリームプラネットの現場の代表に就き、長時間に渡るミーティング[39]、それまでタブーだった「必修授業」の導入[40]、スタッフの意識革命[41]など数ヶ月におよぶ改革を行った。 2002年3月30日、「第一期生」28人が卒業[42]。この卒業式では、それまでコミュニケーションがほとんどなかったアクターズの代表・B.B.PLANETSの特別ライブが開かれた[43]。 これをきっかけに、アクターズとドリームプラネットが合同でミュージカルやダンスの取り組みを行った。その際に、アクターズの生徒がドリームプラネットに入学した[44]。 2002年8月20日、公式ホームページを開設[45]。 2004年、ムーンビーチホテルを退去[46]。移転先として宜野座村の土地を購入したものの再び反対運動が噴出したため、移転を断念[47]。宜野湾市のアクターズ自社ビルでドリームプラネットの生徒を受け入れることとなった。 校舎移転に伴い、ドリームプラネットの生徒とアクターズの生徒が合同で授業やレッスンをするようになった[48]。ただし、校舎は共有するものの学校としては“統合”しておらず、村井と男性2人がスタッフとして残っていた[49]。 「沖縄アクターズスクールをもう一度企業の主体に戻さねばならない[48]」と考えたマキノは2人の男性スタッフを解雇し、2005年4月、村井をドリームプラネットにひとり残した上で、校長に任命する[50]。その上で、アクターズにも村井の立場を確保するため、アクターズのインストラクターからマキノ・メソッドの基礎を教えさせた。[51]。 ミュージカル「S.T.A.R.」とテレビ番組マキノの強烈バックアップにより、村井はドリームプラネットミュージカル「S.T.A.R.」の脚本・演出を手掛けることになった。当時のホームページには「それを演じるキャストには、アクターズスクールで研究に研究を重ねた、唯一無二のダンスとその感覚。そしてドリームプラネットで磨き上げた感性と魂。それらがこの新感覚のミュージカルを可能にさせた」と紹介されている[52]。 2006年3月26日に第1回公演、同7月22日に第2回公演を開催した[53]。尚、アクターズは共催に名を連ねていたが、後に主催として表示されるようになった[54]。 2006年10月から「S.T.A.R.」をベースにしたテレビドラマ「YAH+YAH+YAH」を琉球朝日放送にて放映開始。ドリームプラネットとアクターズの生徒たちが共同で手掛けた[55]。 2007年4月、番組を「Live City」としてリニューアル。村井が脚本・演出を務め、撮影・照明・音声・編集・制作すべてを、ドリームプラネットとアクターズの生徒・スタッフが担うという完全オリジナル番組としてシーズン2まで放送。2009年2月からはスカイパーフェクトTVを通じて全国放送も行われた[56]。 2009年3月[57]からは「ACTORS BACKSTAGE」とタイトルを変え、2010年8月まで放送を続けた[58]。これを以て、ドリームプラネットとアクターズの共同制作番組は終了。ドリームプラネットは完全にアクターズと合流されることとなった[注釈 5]。 サーフボール2003年12月から[59]、マキノが考案したとする新しいスポーツ「サーフボール」に取り組む。地区予選・全日本大会・女子大会の開催、テレビ番組の放映など普及に努めたが、2008年10月に開催された第4回サーフボール選手権を最後に[60]、大会は開催されていない。 詳しくは子記事「サーフボール」を参照。 学科の設置2006年4月、これまでドリームプラネットに存在しなかった「学科」が設置され、毎日午後の2時間「ゼミ」が行われるようになった[61]。
関連人物
脚注注釈出典
参考文献
関連書籍
関連項目 |
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