白井智子
白井 智子(しらい ともこ、1972年9月6日 - )は、日本の教育分野における社会起業家。経営者。株式会社こども政策シンクタンク代表取締役。NPO法人新公益連盟元代表理事。株式会社日本テレメッセージ社外取締役。一般社団法人海士町未来投資委員会理事。認定NPO法人CLACK理事。ハタチ基金理事。ロートこどもみらい財団理事。内閣府休眠預金等活用審議会委員。文部科学省中央教育審議会初等中等教育分科会委員。復興庁「心の復興」事業選定委員。奈良市多様な学びの在り方検討会議座長。四條畷市未来教育会議委員。「民都・大阪」フィランソロピー会議メンバー[1]。 全国初の公設民営フリースクール・スマイルファクトリー、南相馬ラーニングセンター、原町にこにこ保育園等を設立し、誰も落ちこぼされない教育をつくる活動を行った。 経歴1972年、千葉県船橋市で生まれる[2][3][4]。4歳から8歳までの幼少期をオーストラリア・シドニーで過ごす。桜蔭中学校・高等学校を経て[5]、東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業[6][4]。松下政経塾第16期生[4]。卒塾後、沖縄県恩納村にて「ドリームプラネット・インターナショナル・スクール」の立ち上げに関わり、設立後の校長を務めた。 年表
エピソード自身が教育に関わろうと思ったのは、幼少期に暮らしたオーストラリアでの生活と、帰国してからの日本でのいじめ体験が原体験としてあったからである。違いを認めるオーストラリアに対して、日本では人と違うことでいじめにあい、それを教師にも見て見ぬふりをされたという[3]。一方で、成績が優秀で勉強ができれば教師も級友も認めてくれるため、必死に勉強して東大に入学した、と語っている[17]。 東京都知事だった石原慎太郎は、当時の彼女から「新しい教育の中で、教育の責任者として改めて何を感じ取っているかを聞かされ、物凄く感動させられた」と語っている[18]。 大阪に移住後、不登校の子専門の家庭教師をしていたとき、倉田薫池田市長に「池田市は不登校の方が100人以上いるんだけども、公の支援だけでは救えていない。そこで、市長の補佐官をやってどうにかしてくれないか」と頼まれる。白井が「でもやっぱり私には現場がないとダメです」と断ると、倉田から「それなら、今廃止が検討されている施設を活用してフリースクールをつくったらいい」と提案される[19]。 著書単著
共著
脚注
関連項目外部リンク
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