宝プロダクション
宝プロダクション(たからプロダクション)は、かつて京都市右京区御室地区・太秦地区に存在した日本の映画製作会社である[1][2][3][4][5]。高村将嗣(高村正次)が設立し、宝プロダクション撮影所(のちの日本京映撮影所)を開所、映画監督加藤泰をデビューさせたことで知られる[2][1]。船床定男、唐順棋が助監督として映画界に入った最初の会社でもある[6][7][8]。 データ略歴・概要牧野省三の長女・牧野冨榮の夫で、第二次世界大戦前、省三去りし後の東亜キネマ等持院撮影所長(1929年 - 1931年)を皮切りに、直木三十五の協力を得た大衆文芸映画社(1931年 - 1932年)、阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画の立花良介と組んだ正映マキノキネマ(1932年)、東活映画社の社長を辞任した南喜三郎と組んだ宝塚キネマ興行(1932年 - 1934年)と、短命に終わる映画会社をつくってはつぶしてきた高村正次が、戦後、高村将嗣と名乗って設立した[1][2]。高村と冨榮の二人を中心に経営された[1]。 当初、戦前に日本キネマ撮影所として建設・開所されたレンタルスタジオ双ヶ丘撮影所の跡地に建てられた、立石電機(現在のオムロン)京都工場の敷地(現在は住宅地)の一角で映画製作を行った[2]。新東宝と配給契約を結び、時には同社と共同製作を行い、時代劇を製作した[2]。大映京都撮影所の労働組合書記長を務めたことで解雇された加藤泰を演出部に雇い、1951年(昭和26年)には『剣難女難』二部作で監督としてデビューさせた。萩原章も、戦前のマキノ・プロダクション作品のリメイク『神変美女峠』で映画監督としてデビューしている。 1952年(昭和27年)に新東宝との契約を解除、東映と配給契約を結んだ[2]。同年に加藤泰、若杉光夫ら大映京都撮影所をレッドパージされたスタッフが「劇団こうもり組」が結成されているが、のちに『月光仮面』で知られる船床定男は同劇団の演出助手を務めており、加藤が宝プロダクションで監督を始めると、船床も同社に入社することで映画界に入った[6][7]。 1953年(昭和28年)には、双ヶ丘から天神川通(国道162号)に沿って南下した、天神川沿いに独自の映画スタジオ、宝プロダクション撮影所を建設・開所した[2]。経営難から同年中に自主製作を停止、東映京都撮影所とステージレンタル契約を結び、同撮影所の補完的スタジオとして機能した[2]。同年3月、京都大学法学部を卒業した唐順棋が、当時の東映京都撮影所長であり、かつてマキノ・プロダクションの總務部次長であった長橋善語(長橋達夫[9])の紹介で助監督として入社している[8]。記録に残る同社の最後の製作物は、同年8月4日に東映が配給して公開された『地雷火組』(監督並木鏡太郎)であった[4][5]。1956年(昭和31年)までには船床は東宝に移っており[10]、1957年(昭和32年)までには唐も東宝に移り、『早く帰ってコ』(監督斎藤達雄)等にはチーフ助監督に船床、サード助監督に唐とクレジットされている[11]。 1958年(昭和33年)、経営は好転せず、倒産した[1][2]。同社の撮影所は日本京映が引継ぎ、日本京映撮影所と名称変更して、レンタルステージとして稼動した[2]。 フィルモグラフィすべて「製作」である[3][4][5][12]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3]。 1951年
1952年
1953年
註
参考文献
関連項目外部リンク
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