小谷野敦
小谷野 敦(こやの あつし[4]、1962年12月21日 - )は、日本の「作家・比較文学者」[5][6]。禁煙ファシズムと戦う会[7] 元代表。愛称、猫猫先生[8]。恋愛の比較文学的研究から出発し、『もてない男』[9] を出版しベストセラーになる[10]。「新近代主義」の提唱を展開している。 学歴
職歴
人物略歴茨城県水海道市(現・常総市)に、二人兄弟の長男として生まれる[12][13]。父は時計職人、母は煙草屋の看板娘であった[14]。小学校2年生の時に交通事故で入院[12]。同じころ父親が転職したためもあり、小学校3年生の時に埼玉県越谷市に転居[12]。転校先の越谷市立出羽小学校でいじめを受ける[12]。同校4年生の時、国語の教科書に載っていたシェイクスピアの『リア王』の児童向けリライト版冒頭部分に影響され、学級新聞に小説『新・リア王』を連載したことがある[15]。越谷市立富士中学校在学中は落語研究会所属で漫画家志望だったが、絵を描く能力に関してイラストレーターの叔父から疑念を表明され、高校時代に大江健三郎や太宰治を読むようになると小説家志望へ転じる[16]。高校受験では埼玉県立浦和高等学校を受験したが失敗し、海城高等学校に進学。同校ではなかなか友人ができず、いじめっ子集団の標的にされ、成績は平均よりも下を低迷していた[17]。このいじめは、2年生になって成績が向上するまで続いた。陰惨な環境の男子校だったため「男性的なもの」を激しく嫌悪し、女性的なものに憧れて『キャンディ・キャンディ』に熱中した[18]。幼い頃からクラシック音楽に惹かれ、その延長線上でバレエ音楽『コッペリア』『くるみ割り人形』の原作者E・T・A・ホフマンに関心を寄せ、そのため「大学ではドイツ文学科へ進もうと思っていた」[19] こともあるという。 大学受験では一年間の浪人生活を経て東京大学文科III類に進学。1984年、3年次から英文科に進学。大江と同じように23歳で芥川賞を取って大学卒業後ただちに作家生活に入ることを考えたが、大学時代は児童文学のサークルで出している手書きオフセット印刷の同人誌に小説2篇と戯曲1篇を載せたもののサークルの内部で酷評され、自信を失って挫折[16][20]。しかし大学の卒論を書くことが面白かったことから学者をしながら評論めいたことを書こうと考え[16]、大学院に進学。1990年6月、東大大学院での修士論文『英雄の生涯─馬琴、シェイクスピア、19世紀アメリカ小説における近代の運命』が芳賀徹の推薦で福武書店から『八犬伝綺想』として出版される。 1990年8月からカナダのブリティッシュ・コロンビア大学アジア学科の博士課程に留学し、週に一度だけティーチングアシスタントとして日本語の授業を受け持ちつつ、鶴田欣也[21]、Joshua S. Mostow[22]の指導の下で日本文学や比較文学を研究する。留学中は『日本文学』『批評空間』に論文を発表。博士論文のテーマには谷崎潤一郎を選ぼうと考えていたが、ブリティッシュ・コロンビア大学では鶴田と対立する教員から嫌われてティーチングアシスタントから外された後、英語力の不足などが理由で博士号取得資格試験に失敗[23]。鶴田からは「評論家的な資質が自分に似ている」と評され、芳賀徹らとは後に学問的な対立をしたこともあり、のちに「お前の恩師は誰か、一人挙げろと言われたら、鶴田欣也をあげる」[24] と言っている。 1992年帰国。1993年4月から帝京女子短期大学にて英語の非常勤講師を務める。1994年4月、大学院の先輩でロシア語教官であるヨコタ村上孝之助教授の世話により[25]、大阪大学専任講師に就任。大阪府池田市石橋に転居。1997年には東大で博士号を取得。同年、大阪大学では助教授に進んだ。 1998年12月12日、大阪大学吹田キャンパスのコンベンションセンター・MOホールで開催された「ジェンダー・フリー社会をめざす若者セミナー'98」主催のシンポジウム「「ダンジョサベツ」なんてカンケーない?──ジェンダー論の言葉はどうしたら社会に伝わるか──」にパネリストの一人として出席。この席上、小谷野は「私は以前、レズビアンからレズビアンだと告白されてそのあと三日間吐き気が続いた」と発言したところ、同じパネリストの伊藤悟からホモフォビア肯定と受け止められ、猛烈な非難を受けた。ただし、伊藤からの非難について小谷野は誤解であるとし、反論と弁明のメールをメーリングリストに投稿している[26]。 1999年3月に大阪大学を辞職して東京都三鷹市に移住。この辞職について小谷野本人は、酒乱の同僚から恫喝や暴言を受け続け、神経症になったためとしている[25][27]。また、辞職の直前の1999年1月にちくま新書から『もてない男──恋愛論を超えて』を刊行し、新書としては異例ながら10万部を超えるベストセラーになった。同書が反響を呼んだ原因について、小谷野は「誰も言っていなくて、だけど、みんなが思っていたことを言ったからでしょう。そんなのはコロンブスの卵みたいなもんで」と分析している[28]。小谷野はまた、「これまでのところ、私はある種の強運を持っていると思っている。たまたま阪大を辞めたのと同時に本がベストセラーになったため、今日まで食うに困るわけでもなく生き長らえているのは、一つの強運だろう。(中略)だが、庇護者運は悪いらしい」[29] とも発言している。 1999年10月、5歳上の言語学者で大阪大学助教授の由本陽子と結婚し[30]、週刊誌から「裏切り」と報道された[12][31]。この結婚は挙式のみで婚姻届なしの遠距離別居であり、小谷野によれば「恋愛できない人間にお勧めの『友愛結婚』の実践」だったが[12]、婚姻届の提出について由本の同意が得られなかったため、2002年夏、事実婚から3年弱で小谷野の側から「離婚」を申し入れた[12]。 しかし、2003年秋ごろにはやはりもう一度結婚したい、あるいは恋人が欲しいという思いが強くなった上[32]、2004年春、自分が好意をもっていた大学院生の女性の一人に、手ひどい振られ方をしたことがきっかけで[32] 結婚情報サービスに入ろうとしたり、出会い系サイトで女性遍歴を重ねた[33]。自著『恋愛の昭和史』208ページにて「結婚相手に求める七か条」[注釈 1]を書いたりするなどの試行錯誤を経て、2007年に結婚した[注釈 2]。 法廷闘争小谷野は、自身の権利を侵害したと信ずる相手に対しては積極的に法廷闘争を挑み、あるいは提訴を警告している[34]。 奨学金返済をめぐり日本学生支援機構に提訴を警告2005年には自らのブログで日本学生支援機構(理事長・北原保雄=当時)から再三にわたり貸与奨学金返還の督促状を受けていることに触れ、「連帯保証人(父)に催促するとか、債権回収会社から電話で督促させるとか、まるで脅迫状である。私は昨年来、研究者を育てるのが目的の大学院奨学金なのに、いくら研究をしていても専任ではないからといって返還させ、研究していなくても専任なら返さなくていいというのはおかしい、と北原宛に手紙を書き、国際日本文化研究センターからの在職証明書も送っている。機構は、これは常勤職ではない、と言うのだが、私が貸与を受けていた時期の約款には、「客員助教授」は常勤ではない、とは書いていない。1999年に施行された「細則」によって分かるのであり、事後的な契約は無効であるといっているのに。違うと言うなら法廷で戦うのみである。下手に債権回収会社など使ったら脅迫罪で訴えるぞ」と宣言したこともある[35]。その後、2006年に小谷野は国際日本文化研究センターの客員助教授を雇い止めとなり、奨学金返済拒否の口実を完全に失ったが、今日に至るまで貸与奨学金を返済していない。なお、小谷野個人の年収は、当人の発言によると「一千万円前後を行ったり来たり」しているという[36]。 国会議員の嫌煙発言をめぐり日本国を提訴2006年1月16日、衆議院議員杉村太蔵による「多くの若者にとって、たばこは汚い、くさい、カネがかかるの3K」との発言等により苦痛と屈辱を受けたと主張して国家賠償を請求し、東京地裁にて日本国を提訴した[37]。一審では2006年5月24日に原告小谷野が敗訴。2006年5月31日、原告が東京高裁に控訴したが棄却となり、最高裁への上告は受理されなかった[38]。このとき小谷野は弁護士を探したが引き受ける者がなかったため、法曹界でも禁煙ファシズムが広がっていると批判した[38]。 鉄道の全面禁煙をめぐりJRを提訴2007年3月24日、特急や新幹線の全面禁煙措置等が喫煙者に対する差別であり、日本国憲法第13条に定められた幸福追求権の侵害にあたり違憲であるとの主張のもとにJR東日本を東京簡裁に提訴した[39](2007年12月21日、裁判移送先の東京地裁にて小谷野側が全面敗訴[40])。「控訴しても棄却されるのは目に見えているし、上級審で変な判例を作っても何だから」との理由により控訴は断念した[38]。 対談での発言をめぐり藤原書店を提訴2012年、藤原書店の雑誌『環』2009年秋号所収の粕谷一希との対談「本をめぐる対話 第4回 比較という思想‐西洋・非西洋・日本」p.367-368, 376における平川祐弘の発言[注釈 3]をめぐり、同誌への謝罪文掲載を要求して藤原書店を東京地裁に提訴したが、「平川の当該発言は原告(小谷野)の社会的地位を低下させるほどのものではない」との理由で2013年2月に敗訴した[41]。これについて、小谷野は当初「原告勝訴」と勘違いし、その旨のエントリをブログに載せている[42]。「原告敗訴」であることに小谷野が気付いたのはその2日後であった[43]。 笙野頼子はこれを含めた小谷野の法廷闘争を「訴訟三昧[44]」の一言で斬り捨てた。ただし、新型コロナウイルスの流行を受け「耐える以外、意味はない 何も言わずにいるのも必要[45]」と小谷野の対人態度は変化し続けている。 芥川賞との距離二回ほど芥川賞候補になったが、落選。選考委員たちへの抗議を込めて「引退の辯」なる同賞への辞退宣言を自らのブログに発表した[46]。その後も『芥川賞の偏差値』という書物を著したり、週刊読書人で栗原裕一郎、小澤英実、倉本さおりと「芥川賞について話をしよう」なる対談を定期的に行っている[47]。 著作自身の公式ウェブサイトに(「外部リンク」参照)、自著正誤訂正一覧を載せている。 単著ノンフィクション
フィクション
共著
編著
翻訳
序文
解説
巻末対談
漫画原作
映画出演受賞歴脚注注釈
出典
外部リンク
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