ヘンリー・ミラー
ヘンリー・ヴァレンタイン・ミラー(Henry Valentine Miller, 1891年12月26日 - 1980年6月7日)は、アメリカ合衆国の小説家。 来歴
1931年、シカゴ・トリビューンでの仕事を得る。職業を転々としたのち、ヨーロッパを放浪。1934年、自伝的小説『北回帰線』をパリにて発表。しかし本国アメリカでは、その奔放な性表現により発禁になる(1964年、連邦最高裁にて「猥褻文書ではない」とする判決が下された)。 現在ミラーの関連資料はカリフォルニア大学ロサンゼルス校に所蔵されている。 女性遍歴女性遍歴が豊富なことでも知られている。結婚は5回している。最後の妻だったホキ徳田は、本人からは8人目の妻と聞いていたという[2]。 中でも2番目の妻、ジューン・ミラーは作家としてのヘンリー・ミラーにもっとも影響を与えた女性で、パリ時代に夫婦ともに交流のあったアナイス・ニンの日記をもとに、映画『ヘンリー&ジューン/私が愛した男と女』も作られている。ジューンはブコビナ生まれ、ニューヨーク育ちのルーマニア人と言われている。ミラーと知り合ったときはタクシー・ダンサー(ダンスホールに常駐して、一曲ごとに金をもらって男性客のダンスの相手をする女性)だった。1924年に結婚し、1934年に離婚。 ホキ徳田との結婚は、ミラーが75歳の1967年で、50歳近い年齢差があったことから、遺産目当てと目されて欧米では批判的な記事が踊った。あるパーティで徳田を見染めたミラーは、ロスの日本料理店でピアノを弾いていた徳田のもとに通い詰めた[3]。膨大な数の熱烈なラブレターを徳田に送り続けたが、徳田自身は、単に日本女性を自分の恋愛コレクションに加えたいだけのようだったとインタビューに答えている[4]。徳田の滞在ビザが切れそうになったのをきっかけに、寝室は別にすることと友人の同居を条件に、徳田が結婚を承諾[2]。3年で別居したが、離婚したのは1978年である。300通にのぼるミラーからのラブレターは、当初徳田がミラーに興味がなかったことと英語の問題で未開封のものもあったが、のちに本としてまとめられた[4]。手紙の実物は徳田の生活費のために売却された[5]。 ヘンリー・ミラーと三島由紀夫1970年11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地に立てこもり、割腹自殺を遂げた事件(いわゆる三島事件)をみてこう語っている[6]。 「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」 「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」 「彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ」 作品
脚注
伝記・作家論集
関連項目
外部リンク
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