北村太郎北村 太郎(きたむら たろう、1922年11月17日 - 1992年10月26日)は、日本の詩人、翻訳家。本名・松村文雄(まつむら ふみお)。 経歴東京府北豊島郡谷中村(現在の日暮里付近)にて、逓信省簡易保険局の下級官吏の家庭に双生児の兄として生まれる[1]。関東大震災のため1923年から東京府荏原郡駒沢村字弦巻(東京都世田谷区世田谷1丁目)に育つ。駒沢小学校3年修了後、1932年、父が浅草合羽橋通りで蕎麦屋「小松庵」を始めたため、一家で東京市浅草区芝崎町(東京都台東区西浅草)に転居し、4年次から金竜小学校に転校。1935年、東京府立第三商業学校入学。同校では国語教諭佐藤義美の薫陶を受ける。 1940年、同校卒業後、横浜正金銀行に入行して帳面つけを担当するも、勤務時間中に『新潮』(を読んでいたため上司に激しく叱責され、1週間で無断退職。研数学館での浪人生活を経て、1941年、東京外国語学校仏語科入学。1943年、徴兵検査に際して海軍を志望し、武山海兵団に入隊(東京外国語学校は1944年に繰上卒業)。横須賀市久里浜の通信学校で訓練を受けた後、埼玉県大和田の通信隊にて英米の暗号通信の傍受と分析に携わる。 敗戦後は闇屋勤務を経て、専門学校出身者にも門戸を開くようになった東京帝国大学に1946年に入学。1949年東京大学文学部仏文科卒。卒論はパスカルだった。 東大卒業後は、東京日本橋の大阪商事という証券株式会社の調査部で企業の業績に関する記事の執筆を担当。2年後、名古屋支店への転勤を命じられたのを機に退社。1951年11月、朝日新聞社に入社し校閲部に勤務。朝日には25年間勤務したが、文化大革命の全盛期に「毛沢東語録」という表記を「毛主席語録」に直すよう命じられて「毛沢東語録でなぜいけないのだ」と非常に不愉快な思いをするなど、同社の編集方針には違和感を持つことが多かったという[2]。「論説顧問になぜ加藤周一などを起用するのか」と編集局長に詰め寄ったところ、「あの人はすごく外国語ができるそうだよ」と言われ、呆れて物が言えなかったこともあると述べている[3]。 戦前から中桐雅夫主催の『ル・バル』(Le Bal) に参加し、1947年、田村隆一、鮎川信夫らと『荒地』を創刊、同人となる。1966年、第一詩集『北村太郎詩集』を上梓、1976年11月まで朝日東京本社で校閲部長、調査部長を歴任して退社。退社のきっかけとなったのは、社内の人間関係の軋轢で自らの管理者能力の欠如を痛感したことと、田村隆一の妻(田村和子)との恋愛が妻に発覚したことであるという(後に妻とは家庭内離婚に至った)[4]。同年、詩集「眠りの祈り」で無限賞、1983年、『犬の時代』で芸術選奨文部大臣賞、1985年、『笑いの成功』で藤村記念歴程賞受賞、1989年、『港の人』で読売文学賞受賞。また、英米のミステリー、サスペンスを初めとする小説などを数多く翻訳した。1992年10月26日、腎不全のため虎の門病院で死去[5]。 人物田村隆一の四度目の妻である和子(彫刻家である高田博厚の娘)との関係をめぐるトラブル[6]は、後にねじめ正一による長編小説『荒地の恋』のモチーフとなった。2016年にWOWOWで放映されたテレビドラマ版「荒地の恋」[7]では、北村太郎(作品中の名前は北沢太郎)を豊川悦司が、和子を鈴木京香が演じている。 著書
翻訳
ジョナサン・ケラーマン
脚注
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