ヘンリー・ハワード (第6代ノーフォーク公)
第6代ノーフォーク公ヘンリー・ハワード(英: Henry Howard, 6th Duke of Norfolk、1628年7月12日 - 1684年1月13日)は、イングランドの貴族。 経歴1628年7月12日、第22代アランデル伯爵ヘンリー・ハワードとその妻エリザベス(第3代レノックス公爵エズメ・ステュワートの娘)の次男として生まれる[1]。兄にトマス(第5代ノーフォーク公・第23代アランデル伯爵)がおり、長弟に枢機卿となるフィリップがいる[2]。 若い頃は海外に滞在していることが多かった。彼が200,000リーブラの借金をして国王の説得に当たった結果、1660年に兄トマスにノーフォーク公爵位の復権が勅許されたという[1]。 1661年11月4日にはリンカーン法曹院のメンバーとなった[1]。 1665年にイングランドに帰国し、1666年11月28日には王立協会フェロー(FRS)となる。ロンドンの大火の後の1667年1月にはアランデル・ハウスの一室を王立協会に提供している[1]。 1669年3月27日にライジング城のハワード男爵に叙され、貴族に列した。翌4月にはモロッコに大使として派遣された[1]。1672年にはノーリッジ伯爵に叙されるとともに、高祖父第4代ノーフォーク公トマスの代まで世襲していた職位軍務伯に就任した(以降2016年現在まで途切れることなくノーフォーク公爵の世襲職であり続ける)。 1673年には議会で審査法が可決成立し、カトリックの国政関与が禁じられた。これについてヘンリーは「祖国は自分にとって常に慕わしい存在なのに、カトリックというだけで祖国への奉仕を禁じられる」と嘆いた。これ以降無気力に囚われるようになり、イングランド外に隠居所を求めることが増えた[3]。 1677年12月13日には子のない兄第5代ノーフォーク公爵トマスが死去したため、代わってヘンリーが第6代ノーフォーク公爵位を継承したが、トマスは精神障害者としてヘンリーによって死去までイタリアに監禁された経緯があったため、末弟はこれをヘンリーによる公位簒奪と議会に訴えたが、結局この件は不問となった[4]。 1684年1月11日にロンドン・ストランドのアランデル・ハウスで死去した。サセックス州アランデルに葬られた[1]。爵位は長男のヘンリーが継承した。 爵位1669年3月27日に以下の爵位を新規に叙される[5][6] 1672年10月19日に以下の爵位を新規に叙される[5][6]。
1677年12月13日の兄トマスの死により以下の爵位を継承した[5][6]。
家族1652年頃にアン・サマセット(第2代ウスター侯爵エドワード・サマセットの娘)と最初の結婚をし、彼女との間に長男ヘンリーと次男トマス卿の2子を儲けた[5]。長男ヘンリーは第7代ノーフォーク公爵位を継承し、次男トマス卿の二人の息子(トマスとエドワード)はそれぞれ第8代ノーフォーク公爵、第9代ノーフォーク公爵となる[7]。 ついでジェーン・ビッカートンと再婚し、彼女との間に2人の娘を儲けた[5]。そのうち長女エリザベスは初代ゴードン公爵ジョージ・ゴードンと結婚した[8]。 脚注注釈出典
参考文献
|