ハワード家
ハワード家(英語: Howard family)は、イギリスの貴族の家系。1483年にノーフォーク公に叙せられたジョン・ハワードを祖とする。2014年現在、爵位を有するハワード家にノーフォーク公爵家、エフィンガム伯爵家、サフォーク伯爵家、カーライル伯爵家、ペンリスのハワード男爵家の5つが存在する。 歴史本家ハワード家はノーフォーク北方キングズ・リンに近いイースト・ウィンチから出た[2]。姓からノルマン系ではなくサクソン系と考えられる[3]。 記録に残る最初のハワード家の人物はノーフォークの地主で地方民事訴訟裁判所の首席判事を務めたウィリアム・ハワード(生年不詳-1308)である[3][4][5]。これ以降ハワード家は州長官・庶民院議員・ナイト爵を受ける者などを多数輩出し、イースト・アングリア(ノーフォークとサフォーク)有数の平民の名門家になった[6]。 サー・ロバート・ハワード(1385-1436)の代にイースト・アングリアの大貴族である初代ノーフォーク公トマス・ド・モウブレー(イングランド王エドワード1世やフランス王フィリップ3世の子孫にあたる)の娘マーガレット・ド・モウブレー(1391-1459)と結婚し、彼女との間にジョン・ハワード(1420年代前半-1485)を儲けたことでハワード家の家格は急上昇した[5][7][8]。 ジョン・ハワードは1483年にリチャード3世(1452-1485)の即位に貢献したことでリチャード3世からノーフォーク公爵位を与えられたが、2年後の1485年にはリチャード3世とともにボズワースの戦いで敗死した[5][9][10]。長男トマス(1443-1524)は1513年のフロドゥンの戦いでスコットランド軍の侵攻を退けた功績で、1514年にヘンリー8世(1491-1547)から第2代ノーフォーク公爵位の復権を勅許された[5][11][12]。 2代ノーフォーク公の長男である3代ノーフォーク公トマス(1473-1554)は2人の姪をヘンリー8世の王妃にしており(アン・ブーリン(1507-1536)、キャサリン・ハワード(1521-1542)。うち前者はエリザベス1世(1533-1603)を儲けた)、専制君主ヘンリー8世の宮廷で強大な権力を握った[13]。その長男サリー伯爵ヘンリー(1517-1547)は詩人として著名であった[14]。1546年に3代ノーフォーク公父子はヘンリー8世の不興を買って大逆罪により爵位接収の上、処刑されそうになったが(サリー伯爵は翌1547年に実際に処刑される)、ヘンリー8世とエドワード6世(1537-1553)の崩御、つづくメアリー1世(1516-1558)即位への貢献により1553年にノーフォーク公爵位に復権を果たしている[12][15][16]。 3代ノーフォーク公の死後、サリー伯爵の遺児トマス(1536-1572)が4代ノーフォーク公となった。彼はアランデル伯爵フィッツアラン家をはじめとして名門貴族との婚姻を相次いで結んだことでイングランド最大の貴族となった[17]。しかしスコットランド女王メアリー(1542-1587)との結婚計画によりエリザベス1世に警戒され、1572年に大逆罪により爵位接収のうえ処刑されている[16][18][19]。 その後ハワード家は3代88年にも渡ってノーフォーク公爵位を失ったが、その間もハワード家嫡流はフィッツアラン家から女系継承したアランデル伯爵を継承した[20]。第23代アランデル伯爵トマス(1627-1677)の代の1660年に議会の議決により5代ノーフォーク公爵位に復権を果たしている[5][20]。以降ノーフォーク公爵位は今日まで途切れることなく、ハワード家嫡流によって世襲され続けている。ハワード嫡流は14代ノーフォーク公ヘンリー(1815-1860)の代に「フィッツアラン=ハワード」に改姓している[21]。 しかしノーフォーク公爵家は代々カトリックであったため、審査法をはじめとする反カトリック法によって16世紀後半以降1829年のカトリック解放法成立まで政治の中枢から排除された[22]。また宗教的迫害を受けることも多く、第20代アランデル伯爵フィリップ(1557-1595)はカトリックの信仰を捨てることを拒否して死刑判決を受け、死刑執行前に獄死した(教皇庁により列聖される)。1680年には一族の初代スタッフォード子爵ウィリアム・ハワード(1614-1680)がカトリック陰謀事件に関与したとして処刑されている(教皇庁により列福される)[23]。8代ノーフォーク公トマス(1683-1732)や襲爵前の9代ノーフォーク公エドワード(1686-1777)もジャコバイトとの関与を疑われ、それぞれ1722年と1715年に大逆罪でロンドン塔に投獄されている[24]。 分流ハワード家には分流も数多く存在する。現存している爵位を持つ分家にエフィンガム伯爵家、サフォーク伯爵家、カーライル伯爵家、ペンリスのハワード男爵家の4つが存在する[25]。このうちサフォーク伯爵家とカーライル伯爵家はプロテスタントであるため、本家当主がカトリックとして世襲職紋章院総裁の職務を執れないときは代行することが多かった[22]。 エフィンガム伯爵家(エフィンガムのハワード男爵)は2代ノーフォーク公の次男エフィンガムのハワード男爵ウィリアム(1510-1573)を祖とする家系である。この家系からはアルマダの海戦の英雄初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワードが出た[25]。 サフォーク伯爵家は4代ノーフォーク公の次男トマス(1561-1626)を祖とし、現在まで21代続いている[25]。 カーライル伯爵家は4代ノーフォーク公の三男ウィリアム(1563-1640)の曾孫チャールズ(1629-1685)を祖とし、現在まで13代続いている[25]。カーライル伯爵家によって建造されたヨークシャーのハワード城はイギリス貴族の邸宅の中でも最も壮麗な建築物として有名である[26]。 ペンリスのハワード男爵家は12代ノーフォーク公バーナード・ハワードの弟ヘンリー・トマス・ハワードの孫エメス(1863-1939)を祖とし[27][28]、現在で3代目である[29]。 ハワード家の系図ジョン・ハワードまでの系図
ノーフォーク公爵家系図
エフィンガム伯爵家系図
サフォーク伯爵家系図
カーライル伯爵家系図
脚注注釈出典
参考文献
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