第7代カーライル伯爵ジョージ・ウィリアム・フレデリック・ハワード(英語: George William Frederick Howard, 7th Earl of Carlisle, KG, PC、1802年4月18日 - 1864年12月5日)は、イギリスの政治家、貴族。
ヴィクトリア朝前期のホイッグ党・自由党政権で閣僚職を歴任した。
1825年から1848年まではモーペス子爵の儀礼称号で称された。
経歴
1802年4月18日、後に第6代カーライル伯爵となるモーペス子爵ジョージ・ハワードとその妻ジョージアナ(第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの娘)の間の長男としてロンドン・ヒル・ストリート(英語版)に生まれる[2][3][4]。
イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[3]。
大学在学中の1826年にモーペス選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員となる。1830年までこの選挙区から選出され、ついで1830年から1832年までヨークシャー選挙区(英語版)、1832年から1841年までと1846年から1848年にかけてはヨークシャー西リディング選挙区(英語版)から選出された[3][4]。
1848年10月7日の父の死で第7代カーライル伯爵位以下4つの爵位を継承し[3][4]、貴族院議員に転じた[1]。
ホイッグ党・自由党政権で閣僚職を歴任し、1835年から1841年にかけてアイルランド担当大臣(英語版)(第二次メルバーン子爵内閣)、1846年から1850年にかけて森林庁長官(英語版)(第一次ラッセル内閣)、1850年から1852年にかけてランカスター公領大臣(同)、1855年から1858年までと1859年から1864年までアイルランド総督(第一次・第二次パーマストン子爵内閣)を務めた[1][4][3]。
1835年にはイギリスとアイルランドの両方で枢密顧問官(PC)となる[3]。
1864年12月5日にヨークシャーの居城ハワード城で死去。生涯結婚しなかったので子供はなかった[3]。爵位は甥のウィリアム・ジョージ・ハワード(英語版)が継承した[4]。
栄典
爵位
1848年10月7日の父の死により以下の爵位を継承した[4][3]。
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- (1661年4月30日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- モーペスの第7代ハワード子爵 (7th Viscount Howard of Morpeth)
- (1661年4月30日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- ギルスランドの第7代デイカー男爵 (7th Baron Dacre of Gillesland)
- (1661年4月30日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
勲章
脚注
注釈
出典
外部リンク