ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第14代ノーフォーク公)
第14代ノーフォーク公爵ヘンリー・グランヴィル・フィッツアラン=ハワード(英: Henry Granville Fitzalan-Howard, 14th Duke of Norfolk、1815年11月7日 – 1860年11月25日)は、イギリスの政治家、貴族。 父が爵位を継承した1842年から自身が爵位を継承した1856年までアランデル=サリー伯爵の儀礼称号を使用した[2]。 経歴1815年11月7日、後に第13代ノーフォーク公爵となるヘンリー・ハワードとその妻シャーロット(初代サザーランド公爵ジョージ・ルーソン=ゴアの娘)の間の長男として生まれる[3][2]。 家庭教育で育ったが、その後ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ入った[2]。大学を去った後、王立近衛騎馬連隊に入隊し、大尉まで昇進した[2]。 1837年の総選挙でアランデル選挙区から選出されて庶民院議員となる[1][2]。ホイッグ党議員フィッツアラン卿(Lord Fitzalan)として庶民院に入ったが、1851年にホイッグ党首相ジョン・ラッセルの主導で制定された反カトリック的な聖職者称号法に対しては反対の立場を取った。これは法案支持の立場を取った父に抵抗する形での反対だった[2]。 そのため聖職者称号法が可決されるとノーフォーク公爵家の影響力の強いアランデル選挙区の議席を辞し、代わってジョン・オコンネルの好意で譲られたリムリック・シティ選挙区から選出されて庶民院議員となった[2]。しかしその翌年の1852年7月には辞し、庶民院を離れた[2]。 1856年2月18日に父が死去したことにより第13代ノーフォーク公爵位を継承し、貴族院議員に列した[2]。ガーター勲章を贈るという内諭を受けたが、当時の首相である第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルの政策に反対して受章を拒否。この件で気骨のある人物として話題になった[4]。 彼の代に4代公爵トマス夫人の実家フィッツアランを家名に加えてフィッツアラン=ハワードという二重性に改名した[4]。 1860年11月25日にアランデル城で死去した[2]。爵位は長男ヘンリーが継承した。 栄典1856年2月18日の父ヘンリー・ハワードの死により以下の爵位を継承した[5][6]。
家族1878年にオーガスタ・ライオンズ(海軍軍人初代ライオンズ男爵エドムンド・ライオンズの娘)と結婚し、彼女との間に以下の5子を儲ける[5]。
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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