ブラッド・アームストロング
ブラッド・アームストロング(Brad Armstrong、本名:Robert Bradley James、1961年6月15日 - 2012年11月1日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州マリエッタ出身。 父親はWWE殿堂者のボブ・アームストロング。兄はWWEレフェリーのスコット・アームストロング。弟のスティーブとブライアンもプロレスラーである。 来歴NWA1980年7月にデビューし[1]、アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングやジョージアのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングなど、父ボブ・アームストロングが主戦場としていたNWAのディープサウス地区にてベビーフェイスの新鋭として活動。 1980年代初頭はボブとの親子タッグで活躍し、アラバマでは1980年12月、デニス・コンドリー&ランディ・ローズのミッドナイト・エクスプレスからNWAサウスイースタン・タッグ王座を奪取[2]、ジョージアでは1981年11月25日、トーナメント決勝でミスター・サイトー&ミスター・フジを破りNWAナショナル・タッグ王座を獲得した[3]。 シングルでは1981年1月20日にアラバマ地区認定のUSジュニアヘビー級王座に就き[4]、当時レス・ソントンが保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座にも度々挑戦。1983年からはヘビー級戦線に進出し、1984年2月18日にテッド・デビアスからNWAナショナル・ヘビー級王座を奪取、以降も7月にかけてザ・スポイラーを相手にナショナル王座を争った[5]。同年下期からはビル・ワット主宰のMSWAに参戦、12月5日にアーニー・ラッドからミッドサウス北米ヘビー級王座を奪取している[6]。 1986年7月、全日本プロレスに初来日。ジョージアでの盟友だったスタン・ハンセンとテッド・デビアスが参戦した『サマー・アクション・シリーズ '86』に後半戦特別参加で出場し、両国国技館にて行われた世界ジュニアヘビー級王座の初代王者決定トーナメント決勝でヒロ斎藤と対戦した[7]。 1986年、ジョージアやアラバマでもタッグを組んでいたティム・ホーナーをパートナーに、NWAのジム・クロケット・プロモーションズにてライトニング・エクスプレス(The Lightning Express)を結成。ボビー・イートン&デニス・コンドリーの第2期ミッドナイト・エクスプレスやイワン・コロフ&クラッシャー・クルスチェフのザ・ラシアンズと抗争した。ジム・クロケット・ジュニアがビル・ワットから買収したミッドサウス地区のUWFでは、1987年5月17日にスティング&リック・スタイナーを破りUWF世界タッグ王座を獲得、10月16日にブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムスのザ・シープハーダーズに敗れるまで保持した[8]。 WCWライトニング・エクスプレス解散後はシングルプレイヤーに戻り、クロケット・プロを買収したWCWのミッドカードに出場していたが、1991年5月、覆面レスラーのバッドストリート(Badstreet)に変身し、マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービンによる第2期ファビュラス・フリーバーズのサブメンバーとなってヒールに転向。6月3日にはトミー・リッチ&ジャンクヤード・ドッグを3対2のハンディキャップ・マッチにて下し、WCW世界6人タッグ王座を獲得した[9]。同年の下期からは、スパイダーマンを模したアラックナマン(Arachnaman)なるベビーフェイスの覆面レスラーに再変身[10]。スタニング・スティーブ・オースチンが保持していたWCW世界TV王座にも挑戦したがブレイクには到らず、いずれも短命のギミックで終わった。 1992年は素顔のブラッド・アームストロングに戻り、7月5日にスコッティ・フラミンゴからWCWライトヘビー級王座を奪取[11]。同時期、日本では新日本プロレスの常連外国人選手となっており(初参戦は1991年9月)、以降1994年にかけて新日本には通算8回来日。1992年の来日時には、2月10日に名古屋レインボーホールにてスコット・ノートンと組み、武藤敬司&馳浩のIWGPタッグ王座に挑戦した[12]。 1995年に一時WCWを離れ、ジェリー・ジャレット&ジェリー・ローラーのUSWAやジム・コルネットのスモーキー・マウンテン・レスリング(SMW)で活動。USWAではビリー・ジャック・ヘインズ、SMWではバディ・ランデルやテリー・ゴディを破り、各団体のフラッグシップ・タイトルであるヘビー級王座を獲得している[13][14]。 1997年のWCW復帰後はジョバー要員となり、しばらく活躍の機会に恵まれなかったものの、1999年にイニシャルのB.A. をリングネームに、ラッパーのMaster Pが結成した "No Limit Soldiers" に加入、コナンやレイ・ミステリオ・ジュニアと共闘し、カート・ヘニングやバリー・ウインダムらによるウエスト・テキサス・レッドネックスと抗争した。ユニット解散後はベルリンとの抗争が組まれ、10月24日の "Halloween Havoc 1999" にて勝利を収めている[15]。 以降はWCWのストーリーラインから外され、1999年の末からは再びヒールターンし、当時WWFで人気を博していた弟の "ロード・ドッグ" ジェシー・ジェームズのパロディであるバズキル(Buzzkill)なるキャラクターに扮したが、2000年初頭に膝を負傷して戦線を離脱。2001年のWCW崩壊後は古巣のアラバマやジョージアのインディー団体にスポット参戦し、父のボブや兄のスコットとのタッグでレジェンド・マッチに出場していた。 WWE2006年9月、第3ブランドECWのカラー・コメンテーター兼ロード・エージェントとしてWWEと契約。ハウス・ショーでは試合にも出場し、スティービー・リチャーズらと対戦した[1]。2007年はWWEの下部団体だったDSWにも登場、3月17日の "Park Slam" ではメジャー・ブラザーズとトリオを組み、ウィリアム・リーガル、デイブ・テイラー、フィンレイの英国人チームと6人タッグマッチで対戦している[1]。 2011年4月2日、アトランタのフィリップス・アリーナで行われたWWE殿堂の記念式典に出席、スコットやブライアンと共に、ボブ・アームストロングの殿堂入りのインダクターを務めた[16]。 得意技獲得タイトル
脚注
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