フランク・ゲーリー
フランク・オーウェン・ゲーリー(Frank Owen Gehry [ˈɡɛəri]、1929年2月28日 - ) は、アメリカ合衆国のロサンゼルスを本拠地とする、カナダ・トロント出身の建築家。現在、コロンビア大学建築大学院教授。イェール大学でも教鞭を執っている。 略歴1929年2月28日、トロントに住むニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人の父アーヴィング・ゴールドバーグとウッチ生まれのポーランド系ユダヤ人の母セルマの間にフランク・オーウェン・ゴールドバーグ(Frank Owen Goldberg)として生まれる。彼はまたイーフレイム(Ephraim)というヘブライ名を持っている。創造的な子どもで、音楽や絵画を好んだ。特に母方の祖母と薪ストーブの燃料用木くずを使って作った台所の床上の「小さな町」は、自身の創作の原点だと語っている。また、波型鉄板や金網、合板などの工業用素材の使用は、10代の放課後や土曜日に手伝った祖父の金物店での経験が影響を与えている。 トロントの高校を卒業し、1947年に、家族とロサンゼルスへ移住。トラック運転手や親戚の事業の手伝いをしながら、ロサンゼルス・シティー・カレッジの夜間クラスに通い、美術と建築を学んだ。また、南カリフォルニア大学の時間外プログラムにも通い美術史や陶芸を学んだ。1952年、最初の妻アニタと結婚。1954年に南カリフォルニア大学より建築学士号を取得する。同年、第一子の誕生に際して、反ユダヤ主義の影響を避けるために姓をユダヤ系のゴールドバーグから現在のゲーリーに変更する。その後、徴兵され1956年まで陸軍に入隊し、隊員クラブの改修を手がけた。除隊後、ハーバード大学デザイン大学院で都市計画を1年間学んだ。その後、ロサンゼルスに戻り、ペレイラ&ラックマン事務所を経て、大学時代に働いていたヴィクター・グルーエン事務所に所属する。グルーエン事務所には1960年まで所属し、住宅から商業施設、オフィス、複合施設など幅広く設計を手がけた。 1961年、友人の誘いもあり、スティーヴス邸の設計料を元手に、妻と幼い2人の娘と共にパリへ移った。パリでは、建築家のアンドレ・ルモンデ(André Remondet)の下で働き、週末にはシャルトル大聖堂やロンシャンの礼拝堂(Notre Dame du Haut, Ronchamp)などの建築のメッカで過ごす。1962年にアメリカに戻り、1967年に他の若い建築家と事務所を設立する。 当初、一般向け家具のデザインを手掛けた彼は、価格をめぐり投資家と対立し、成功には恵まれなかった。1978年より世間の注目を集めるきっかけになったのは、皮肉にもサンタモニカの自宅の安価なリノベーションであった、「ゲーリー自邸(Gehry Residence)」である。その後、脱構築主義建築の旗手とみなされるようになり、建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞を含む、高い評価を受ける作品を数多く発表するようになる。 彼はソフトウェア技術にも精通し、モデリングと構造解析を行う航空力学・機械設計向けソフト「CATIA」を建築に適用しつつ、複雑な形態を構造的に解決している。同時に、ファサードに用いられるチタンパネルの枚数など、施工に必要な部材の具体的な数値・量までもが割り出される。ビルバオ・グッゲンハイム美術館などは、その技術を駆使した設計の一例である。2002年には、ゲーリーが設計に用いるこれらの技術をビジネス化するため、Gehry Technologies社が設立された。 2003年、カナダ勲章叙勲。2006年から、ティファニーのジュエリーデザインを多数手掛ける。 2007年6月2日から、渋谷のBunkamuraル・シネマほかにて、彼を題材にしたドキュメンタリー映画『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』が公開された。 日本には、神戸にある巨大オブジェ「フィッシュ・ダンス」のほか、sno:la京都店に彼がデザインした段ボールでできたイスやソファーがある。 作品
日本語文献
受賞歴
作品ギャラリー
脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia