パリ・ブリュッセル・アムステルダム間の列車パリ・ブリュッセル・アムステルダム間の列車は、フランスのパリとベルギーのブリュッセルおよびオランダのアムステルダムを結ぶ国際列車である。 概要この三都市間には19世紀以来、国際列車が頻繁に運行されている。 1920年代から30年代には国際寝台車会社の客車による豪華列車があった。1950年代以降はTEEの主要な運行経路の一つであり、最盛期にはパリ - ブリュッセル間に一日6往復のTEEがあった。1990年代以降は高速列車タリスに置き換えられている。 また本項では主としてパリを起点とする列車について記述する。 →ブリュッセル - アムステルダム間の列車についてはベネルクストレインを参照
列車名一覧1920年代から1990年代まで、パリとブリュッセルあるいはアムステルダムを結んでいた昼行列車の列車名、種別、運行区間等は以下の通り。この他にも固有の名前のない列車もあった。タリスには個別の列車名はつけられていない。 フランス語の列車名についてはエリジオンした定冠詞を省略することもある。以下では省略した表記を用いる。 一覧表
注釈
歴史第一次大戦までパリとブリュッセルを結ぶ鉄道が全通したのは1846年9月1日のことである。ただしこの時の経路は後の主要経路とは異なり、パリ-リール線からドゥエーで分岐し、ヴァランシエンヌを経由(ベルギー国鉄97号線)して国境を越え、モンスを経てブリュッセルに至る(ベルギー国鉄96号線)ものだった[7]。このときパリ - ブリュッセル間には昼夜2往復の直通列車が運転された。昼行列車の所要時間は12時間30分、夜行列車は14時間であった[8]。 1858年1月1日にはより距離の短いサン=カンタン経由の路線(クレイユ-ジュモン線)が開通し[8]、所要時間は6時間30分にまで短縮された。19世紀末にはパリ - ブリュッセル間には12往復(サン=カンタン経由7往復、ヴァランシエンヌ経由5往復)の列車が運行されており、所要時間は最短5時間程度であった[8]。 20世紀に入ると北部鉄道は新型機関車の投入によるスピードアップに力を入れた。第一次世界大戦直前にはパリ - ブリュッセル間は最短3時間55分で結ばれていた[8]。 戦間期第一次世界大戦によって北フランスからベルギーにかけての鉄道は大きな被害を受けた。1920年代初め、パリ - ブリュッセル間の直通列車は5時間30分を要していた[9]。 1923年、パリ - ブリュッセル間に途中駅無停車の列車一往復が設定された。それまで同区間の列車は国境駅で機関車をそれぞれの国のものと交換していたが、この列車ではそれを省略し、フランスの機関車がブリュッセルまで牽引した。所要時間はちょうど4時間であった[9]。 1927年5月6日、パリ - アムステルダム間に国際寝台車会社(ワゴン・リ社)のプルマン車(サロン車)専用の列車「エトワール・デュ・ノール」が運行を開始した[10]。当時ワゴン・リ社はプルマン車からなる豪華列車を西ヨーロッパ各地で運行しており、エトワール・デュ・ノールもその一つであった[11]。パリ北駅 - ブリュッセル南駅間は途中無停車であり、出入国や税関の手続きはパリ北駅で行なわれた[12]。アドルフ・ムーロン・カッサンドルが広告用ポスター「北極星号」を製作している。これは同年の「北急行(北方急行)」とともにカッサンドルにとって初めて鉄道を主題にした作品である。特徴的な空間表現が用いられており[13]、ポスター芸術史上の名作とも評されている[14]。 ワゴン・リ社は1929年5月15日からパリ - アントウェルペン間にもう一往復のプルマン車専用列車の運行を始め、「オワゾ・ブルー」と命名した[15]。この広告ポスターもカッサンドルが手がけている[16]。1935年5月からはオワゾ・ブルーのパリ - ブリュッセル間(途中無停車)の所要時間は3時間ちょうどとなり[15]、同区間の表定速度は当時としては画期的な103km/hに達した[9]。1937年5月28日にはオワゾ・ブルーはパリ - アムステルダム間に延長された[15]。 また1937年にはパリ - ブリュッセル間に北部鉄道の車両による気動車特急列車(Trains Automoteurs Rapides, TAR)が運行を始めた。この列車は途中3駅に停車しながらパリ - ブリュッセル間を3時間ちょうどで結んだ[9]。 1939年、第二次世界大戦の勃発によりこれらの列車はすべて運休となった。 第二次大戦後第二次世界大戦によってこの区間の鉄道は再び大きな被害を受けた。エトワール・デュ・ノールは1946年にパリ - アムステルダム間で、オワゾ・ブルーは1947年にパリ - ブリュッセル間で運行を再開したが、これらの列車はプルマン車専用ではなく、一般の客車も連結していた。また所要時間も戦前より長くなっていた[15]。 1952年にはブリュッセル市内の北南接続線が開通し、パリ方面とアムステルダム方面の経路が短絡された[17]。このときからオワゾ・ブルーの終点はブリュッセル北駅となった。客車の一部はアムステルダムまで直通したが、「オワゾ・ブルー」の列車名を名乗ったのはブリュッセルまでである[15]。 1954年にはフランス国鉄の車両による気動車特急列車(TAR)がパリ - ブリュッセル間を2時間56分で結び、戦前の記録を更新した[17]。 TEE1957年6月2日、TEEの発足と同時にエトワール・デュ・ノールとオワゾ・ブルーはTEEになり[18][19]、さらにパリ - アムステルダム間にTEE「イル・ド・フランス」が運行を始めた[1]。3列車とも気動車列車であり、エトワール・デュ・ノールとオワゾ・ブルーはオランダ国鉄とスイス連邦鉄道(スイス国鉄)の車両(4両編成)を[18][19]、イル・ド・フランスはフランス国鉄の車両(2両編成)を用いた[1]。3往復ともパリ - ブリュッセル間は無停車であり、この区間の所要時間は最短2時間45分となった。またパリ - アムステルダム間は5時間33分で結ばれた[20]。 1958年3月1日からイル・ド・フランスは繁忙期にはパリ - ブリュッセル間でもう一編成(2両)を増結し4両編成で運転された[1]。この2両はエトワール・デュ・ノールの輸送力増強にも用いられたが、フランス車とオランダ・スイス車を併結することは不可能だったので、パリ - ブリュッセル間でエトワール・デュ・ノールの直後を走る「第二エトワール・デュ・ノール」(L' Étoile du Nord bis)として運転された[12]。 1958年9月28日からはオワゾ・ブルーは途中のサン=カンタンとモンスに停車するようになった[19]。また1958年の夏ダイヤから、エトワール・デュ・ノールとイル・ド・フランスはフランスとベルギーの国境近くの駅(列車により異なる)で出入国管理官の乗降のため運転停車するようになった。これらのためTEEの所要時間は増加した。国境での運転停車は1964年まで続いた[12]。 客車列車化1960年代初め、パリ - ブリュッセル・アムステルダム間のTEEの輸送力は飽和状態にあった。気動車では需要に応じた増結が難しいことから、1963年5月に予定されていた同区間の全線電化に合わせ、各国鉄はこの区間のTEEを電気機関車牽引の客車列車とし、さらにパリ - ブリュッセル間で一往復増発することを決めた。またフランス国鉄とベルギー国鉄はTEE専用の新型客車(TEE PBA型)を共同で開発した[21]。 ところが1962年冬の寒波の影響でベルギーでの電化工事が遅れ、1963年5月26日のダイヤ改正に間に合わなかった。このため同日運行開始したTEE「ブラバント」はフランス国鉄の気動車を用いた。また運転されたのはブリュッセル発パリ行の片道のみで、逆方向はイル・ド・フランスの増結車または第二エトワール・デュ・ノールとして運転された[22]。 1963年9月1日からブラバントはTEEとして初の電気機関車牽引の客車列車となり、往復とも運転されるようになった。ただしこの時点ではTEE専用の客車は完成しておらず、フランス国鉄の従来の幹線用一等客車が用いられ た[22]。 1964年5月31日からブラバントの客車はTEE PBA型となり[22]、イル・ド・フランスもTEE PBA客車による客車列車となった[1]。同時にオワゾ・ブルーはフランス国鉄の従来型客車による客車列車となった[19]。エトワール・デュ・ノールはこの時点では気動車列車のままだった。 1964年8月2日にエトワール・デュ・ノールとオワゾ・ブルーもTEE PBA客車による客車列車となった[18][19]。増発と客車化によりこの区間のTEEの輸送力は大幅に強化された。また最高速度が150km/h(フランス国内)とされた[23]ことにより、所要時間もパリ - ブリュッセル間で最短2時間30分、パリ - アムステルダム間で5時間20分に短縮された[24]。 1968年にはフランス国内の最高速度が160km/hに引き上げられ[23]、パリ - ブリュッセル間は最短2時間20分となった。また1969年にはエトワール・デュ・ノールがパリ - アムステルダム間を5時間ちょうどで結んだ[25]。 TEE6往復体制1974年9月26日、パリ - ブリュッセル間に新たに2往復のTEE「メムリンク」、「ルーベンス」が設定され、同区間のTEEは(パリ - アムステルダム系統を含め)6往復となった。 6往復のTEEのダイヤは等間隔ではなく、下記のようにパリ発、ブリュッセル発とも午前中と夕方以降に集中していた。これは元々4往復時代に朝、昼、夕方、夜に各一往復ずつ運転されていたものを、需要の多い朝と夕方に増発したためである[26]。
インターシティ・ユーロシティ1980年に二等車を含む国際列車の種別としてインターシティ(IC)が導入された。このとき、パリ発アムステルダム行(IC 287)とブリュッセル発パリ行(IC 484)の2本のインターシティが設定された。これらは当時唯一の列車名のない国際インターシティであった[27]。 また1981年からはパリ - ケルン間をブリュッセル経由で結ぶ[注釈 1]インターシティが運行された。この列車は1985年に「ディアマント」と命名された[28]。その後1987年にはユーロシティに種別変更の上「ギュスターヴ・エッフェル」と改名され、さらに1993年に「ジャック・ブレル」と再度改名されたのち、1997年にタリスのケルン乗り入れにともない廃止された[6]。 1984年6月3日にはパリ - ブリュッセル系統の優等列車の再編が行なわれ、オワゾ・ブルーとメムリンクは後継なく廃止、エトワール・デュ・ノールとブラバントは二等車を含むインターシティに変更された。さらにイル・ド・フランスはTEEのままではあるがパリ - ブリュッセル間に短縮された[29]。 1987年5月31日のユーロシティ(EC)発足とともに、TEEイル・ド・フランス、ルーベンスとICエトワール・デュ・ノール、ブラバントはユーロシティに種別変更された[29]。ギュスターヴ・エッフェル(パリ - ケルン)と合わせ、パリ - ブリュッセル間では一日5往復のユーロシティが運行された[30]。なおユーロシティは二等車を含むのが原則であったが、イル・ド・フランスとルーベンスはTEE時代と同様一等車のみの編成であった[31]。 一二等TEE1993年5月23日(LGV北線部分開業と同日)から、パリ - ブリュッセル間のユーロシティであったイル・ド・フランス、ブラバント、ルーベンスはTEEに種別を変更した。さらに同区間にはもう一往復のTEEが設定され、「ヴァトー」と命名された。ただし、かつてのTEEとは異なり、これらのTEEは二等車も含む編成であった。特にイル・ド・フランスとルーベンスはユーロシティの時は一等車のみだったにもかかわらず、再度TEE化された際に二等車を含むようになった。なおパリ - アムステルダム間のエトワール・デュ・ノールはユーロシティのままだった[32]。また土曜日と日曜日にはブラバント以外のTEEは運休となった[33][34][35][5]。 これらの列車にTEEの種別名を用いたのはマーケティング上の理由によるものである。当時パリ - ブリュッセル間の列車は航空機との競争にさらされていた。このころ「ユーロシティ」の種別は東ヨーロッパへの列車にも用いられるなど一般化してしまっていたため、よりイメージの良い"TEE"の名称を用いたのである[32]。 ただし、パリ - ブリュッセル間の所要時間は最短2時間30分と、1970年代と比べても遅くなっていた。それでさえ機関車の老朽化のため遅延が常態化していた[32]。 1995年1月23日、パリ - ブリュッセル間のTGV運転開始と引き替えにTEEのうち3往復が廃止され、ブリュッセル行イル・ド・フランス(TEE 85)とパリ行ヴァトー(TEE 88)のみが残った。この一往復も1995年5月26日の運行を最後に廃止された。この日20時01分にブリュッセル南駅に到着したイル・ド・フランスが史上最後のTEEとなった[36]。 高速鉄道へ→詳細は「タリス」を参照
1995年1月23日、LGV北線を経由しパリとブリュッセルを結ぶTGV3往復が運行を開始した。これには直流3000V電化のベルギー国内を走行可能なTGV Réseauの3電源対応車が用いられた。この時点では高速線を走行するのはパリ - リール間のみであり、リール・ユーロップ駅で方向転換を行なってベルギー国内では在来線を走行していた。所要時間は2時間23分から28分と、在来線経由と大差ないものであった[36]。 1995年5月27日にはパリ - ブリュッセル間にもう一往復のTGVが増発された。この列車は途中無停車ではあるが在来線を経由した[36]。 1996年6月2日にはLGV北線のベルギー国境までの区間とベルギー高速鉄道1号線の国境からアントアン(Antoing)までの区間が開業し、パリ - ブリュッセル・アムステルダム間などでタリスの運行が始まった。本数はパリ - ブリュッセル間で13往復(ブリュッセル以遠への列車も含む)、パリ - アムステルダム間で4往復であった[36]。なおパリ - アムステルダム間のユーロシティだったエトワール・デュ・ノールはこの時廃止された[37]。 その後ベルギーやオランダでの高速新線の開業・延伸により、タリスの所要時間は短縮され続けており、本数も増加している[36]。 年表
以後はタリスを参照。 停車駅一覧一覧表
凡例
注釈
車両気動車TAR→「fr:TAR (autorail)」も参照
TAR(Train automoteur rapide, 気動車特急列車の略)はフランスの北部鉄道が1934年から製造した気動車、および同車両を利用した列車のことである。元はパリ - リール系統用であったが1937年からはパリ - ブリュッセル系統にも用いられた。最高速度は140km/hであった[39]。 DE4型/RAm型TEE運行開始にあたり、オランダ国鉄とスイス連邦鉄道(スイス国鉄)が共同開発した気動車である。オランダ国鉄ではDE4型と呼びスイス国鉄ではRAm型と呼ぶが、同一の形式であり運用上も区別されなかった。 1957年からエトワール・デュ・ノール、オワゾ・ブルーとエーデルヴァイス(アムステルダム - チューリッヒ)の3列車で運用された。オワゾ・ブルーは沿線にない国の車両を用いる特異な例であった[40]。 X2771型→「fr:X 2770」も参照
X2770型はフランス国鉄が幹線用気動車(RGP)を改良して製作したTEE用気動車である。動力車1両と付随車1両の2両編成を基本とし、付随車側には厨房と税関業務用の部屋があった。動力車と付随車では先頭の形状が異なり、2編成を連結して4両編成とするときは付随車同士を連結した[41][42]。 1957年からイル・ド・フランスに用いられ[1]、1958年からはイル・ド・フランスの増結用と第二エトワール・デュ・ノールにも用いられた[18]。 客車プルマン・エトワール・デュ・ノール型ワゴン・リ社が1920年代にヨーロッパ各地で運行したプルマン車(サロン車)の一形式であり、エトワール・デュ・ノールなどで用いられた。一等車と二等車があり、中央の通路を挟んで一等車は両側に一人掛けの座席が、二等車では一人掛けと2人掛けの座席が並ぶ配置である[11]。二等プルマン車はエトワール・デュ・ノールで初めて設けられた[10]。一等車、二等車とも厨房付の客車と厨房なしの客車が二両一組で運用された[11]。 TEE PBA型→「fr:Voiture TEE PBA」も参照
TEE PBA型はフランス国鉄とベルギー国鉄が共同で開発したTEE用客車の通称である。単にTEE型、あるいはTEE inox型(inox = ステンレスの意)やTEE 1964年型などとも呼ばれる。車体はステンレス製で台車は160km/h運転に対応している。無塗装であるが、窓の上の部分に細い赤帯がつく。新製時には以下のような種類があった。なお一等開放座席車(A8t)はベルギー国鉄所属、その他はフランス国鉄所属であった[43]。
1983年から1987年にかけて一部客車が二等車に改造され、パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のインターシティ、ユーロシティおよび一二等TEEで用いられた[43]。 またTEE PBA型を改良して製造されたミストラル69型客車も後にパリ・ブリュッセル・アムステルダム系統に用いられた[43]。 その他1963年9月1日から1964年5月30日までのブラバントと1964年5月31日から8月1日までのオワゾ・ブルーではフランス国鉄のDEV鋼製客車(Voiture DEV AO)とワゴン・リ車の食堂車が用いられた[44]。 1980年代以降のパリ・ブリュッセル・ケルン系統のインターシティ、ユーロシティではフランス国鉄のコライユ客車などが用いられた[45]。 機関車蒸気機関車1957年のTEE発足以前、パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統の国際列車のほとんどは蒸気機関車牽引であった。1930年代にオワゾ・ブルーを牽引したアンドレ・シャプロン設計のパシフィック型機関車などがよく知られている[8]。
電気機関車1963年から1964年にかけてパリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のTEEは電気機関車牽引となった。この区間の電化方式はフランスが交流25kV50Hz、ベルギーが直流3000V、オランダが直流1500Vとそれぞれ異なっており、また国境駅での機関車交換は行なわれなかったため、使用される機関車は2つ以上の電源に対応している必要があった。 パリ - アムステルダム間のTEEを全区間牽引したのはベルギー国鉄の15形機関車のみである。フランス国鉄のCC40100形、およびその派生形式であるベルギー国鉄の18形機関車はオランダ国内の走行も想定して設計されていたが、オランダ国鉄が乗り入れを認めなかったためパリ - ブリュッセル間のみで用いられた[46]。また15形もブリュッセル - アムステルダム間のみで用いられることもあった[47]。 この区間のTEEで用いられた電気機関車は以下の通り[48]。
なお、1973年まではブリュッセル - アムステルダム間をベルギー国鉄のディーゼル機関車が牽引することもあった[49]。 編成・運用1957年1957年のTEE運行開始当時、エトワール・デュ・ノールとオワゾ・ブルーはオランダ国鉄のDE4型気動車とその同型車であるスイス国鉄のRAm型気動車を用いていた。これら2列車はエーデルヴァイス(アムステルダム - チューリッヒ)と共通の運用を組んでおり、予備1編成を含む5編成(オランダ車3編成、スイス車2編成)が以下のように4日周期で運用された[40]。
一方イル・ド・フランス用のフランス国鉄X2770型気動車はイル・ド・フランス専用であり、1つの編成がパリ - アムステルダム間を一日一往復した[1]。 また1958年からパリ - ブリュッセル間でイル・ド・フランスの増結車および第二エトワール・デュ・ノールとして用いられた車両は、一日にパリ - ブリュッセル間を一往復した。このとき片方向でイル・ド・フランスの増結車だった車両は逆方向では第二エトワール・デュ・ノールとなった[1]。 1964年1964年8月2日からパリ - ブリュッセル・アムステルダム間のTEE4往復はすべてTEE PBA型客車となった。このとき以下のようにパリ - アムステルダム系統用に3編成、パリ - ブリュッセル系統用(パリ - アムステルダム系統への増結車を含む)に3編成の6編成が用意された。
これらは以下のように第1、第2編成は2日周期、第3-第5編成は3日周期で運用された。なお第6編成はオワゾ・ブルー(TEE 145/108)専用でパリ - ブリュッセル間を一日一往復した。第1編成の※の1両は第2日には第2編成の※の位置に連結され、常にブラバント(TEE 119/128)に用いられた。また第3、第4編成の※の車両も適宜第5編成の※の位置に移され、アムステルダム行エトワール・デュ・ノール(TEE 125)およびパリ行イル・ド・フランス(TEE 148)に用いられた。そのほかにも臨時に増結されることがあった[43]。
1974年TEEが6往復化された1974年には、イル・ド・フランスを除く5往復は共通の車両を用いており、以下の7両編成4組が7日(1週間)周期で運用されていた[3]。
イル・ド・フランスは他のTEEとは独立した運用で、一編成がパリ - アムステルダム間を一日一往復した[1]。このほかエトワール・デュ・ノール、イル・ド・フランスのパリ - ブリュッセル間増結用客車があり、これはパリ - ブリュッセル間を一日2往復した[25]。 1977年にはパリ - アムステルダム系統とパリ - ブリュッセル系統の運用が分離された。パリ - アムステルダム系統(2往復)では3つの編成が7日周期で運用されたほか、パリ - ブリュッセル間の増結用車両が同区間を一日2往復した[25]。パリ - ブリュッセル系統(4往復)には3つの編成が充当され、7日周期で運用された[26]。 1993年パリ - ブリュッセル間のTEE4往復とパリ - アムステルダム間のECエトワール・デュ・ノールはいずれもTEE PBA型客車(一部二等車)とミストラル69型客車を利用していた。原則として1つの編成がパリ - ブリュッセル間を一日一往復していたが、エトワール・デュ・ノールの往復(EC 82/87)とブリュッセル行ブラバント(TEE 83)、パリ行ヴァトー(TEE 88)については2つの編成が2日周期で運用された[33]。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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