ドリトル先生物語全集『ドリトル先生物語全集』(ドリトルせんせいものがたりぜんしゅう)は、アメリカ合衆国(米国)で活動したイギリス出身の小説家、ヒュー・ロフティング(1886年 - 1947年)の児童文学作品『ドリトル先生』(Doctor Dolittle)シリーズ全12巻を日本の小説家、井伏鱒二(1898年 - 1993年)が日本語に訳した全集。1961年から1962年にかけて岩波書店より出版され、現在も版が重ねられている。 本項では前史として岩波書店が刊行する以前の井伏訳と、岩波少年文庫版『ドリトル先生』についても記述する。1951年に文庫版の刊行を開始して以来、全集・文庫版を合わせたシリーズ全巻の総発行部数は約510万部(2010年現在)[1]。 沿革『ドリトル先生』自体の日本における紹介は大槻憲二(1891年 - 1977年)が博文館の雑誌『少年世界』1925年(大正14年)1月号から12月号まで、小笠原寛三の挿絵により第2巻"The Voyages of Doctor Dolittle"を『ドーリットル博士の航海』の表題で訳したものが最初であるが[2]、この連載は単行本化されなかったこともあり井伏訳に比べると知名度は高くない。 前史児童文学作家・石井桃子(1907年 - 2008年)の述懐によれば、故郷の浦和から荻窪へ転居した石井が近所に住んでいた井伏鱒二にシリーズ第1巻"The Story of Doctor Dolittle"を薦め、井伏は「いい話ですね、いい話ですね」と瞬きしながら石井が語るあらすじに感心していたという。この頃、石井は東京市四谷区(現在の東京都新宿区)信濃町にある衆議院議員・犬養健の邸宅に犬養道子の家庭教師として出入りしていたが、1938年(昭和13年)に道子の母・仲子の薦めで健の父・犬養毅(元内閣総理大臣)の書庫を提供され、この書庫を改造して友人2名と共同で児童書専門の図書館・白林少年館を設立した。 白林少年館版「アフリカ行き」社会情勢が次第に軍国主義へ傾斜し、児童書の分野においてもその流れは例外ではなかったことから息苦しさを感じた石井は「本当に子供が読みたいもの」を刊行する信条に基づき1940年(昭和15年)に白林少年館出版部を設立し、その刊行ラインナップの一点として"The Story of Doctor Dolittle"が選ばれた[3]。 翻訳に当たっては石井が原文の下訳を行い、井伏がその下訳を「自分の好みのままの文章」に改めたとしている。井伏は文藝春秋の雑誌『文學界』1940年12月号でエッセイ「童話 ドリトル先生物語」として冒頭部分の翻訳と原作者のロフティングがイギリス陸軍・アイリッシュガーズ連隊の志願兵として西部戦線に従軍した際、戦地から2人の子供に宛てて挿絵付きで書き送った物語が原型になっていることを紹介すると共に、主人公の姓"Dolittle"は本来の英語に即した発音では「ドゥーリトル」であるが「日本の子供には舌先きに馴染みがないだらう」と考え「ドリトル」という表記を用いることにした旨を述べている。こうして訳された『ドリトル先生「アフリカ行き」』は白林少年館出版部から1941年に刊行されたが、軍国主義化を強める一方であった社会情勢の煽りを受けて白林少年館が閉鎖されたことに伴い、出版部も活動停止となってしまう。しかしながら、出版業界では『アフリカ行き』に対して一定の反響が見られたようであり、同年12月にはフタバ書院成光館が新装版を刊行している[4]。 「船の旅」雑誌連載『アフリカ行き』刊行に前後して井伏は第2巻"The Voyages of Doctor Dolittle"の翻訳に着手し、この訳は講談社の雑誌『少年倶楽部』1941年1月号から『ドリトル先生船の旅』の表題により河目悌二の挿絵で連載された。「鬼畜米英」をスローガンとしていた当時の日本の世情に憚ってか、この連載では(イギリス出身で米国へ移住した)ロフティングが原作者としてクレジットされていない。この連載の途中で井伏は陸軍に徴用されてマレー半島に赴き、本書の翻訳は一時中断したが連載は井伏名義のまま代理の翻訳者が実作業を行って継続され、1942年(昭和17年)12月号掲載の第24回で完結した[5]。終戦後にマレーから帰国した井伏は雑誌連載時に代理の翻訳者が担当した後半部分も自身で翻訳し直して表題を『ドリトル先生航海記』と改め、1952年(昭和27年)に講談社が刊行した世界名作全集のラインナップに加えられた。 岩波少年文庫での復刊戦時中、宮城県へ疎開していた石井は1947年(昭和22年)に東京へ戻って岩波書店の嘱託社員となり1950年(昭和25年)、吉野源三郎らと共に岩波少年文庫(第1期、全100点121冊)を創刊した。戦前に白林少年館とフタバ書院成光館から刊行されていた『アフリカ行き』は1947年に光文社より復刊されていたが、石井は是非とも同作を岩波少年文庫から刊行したいと考えて再度、井伏に訳文の推敲を要請する。こうして、1951年(昭和26年)に新字体・現代仮名遣いへ訳を全面的に改めると共に、日本語版としては初めて原作者のロフティングが描いた挿絵を使用した『ドリトル先生アフリカゆき』が刊行された。この後も井伏の手でシリーズ各巻の翻訳が続けられ、岩波少年文庫での刊行順に第4巻『ドリトル先生のサーカス』、第3巻『ドリトル先生の郵便局』、第6巻『ドリトル先生のキャラバン』、第8巻『ドリトル先生月へゆく』が翻訳され[6]、当初は講談社より刊行されていた第2巻『航海記』も1960年(昭和35年)に岩波少年文庫へ編入された[7]。 全集版の刊行岩波少年文庫では井伏側の執筆事情などから上記のような飛び飛びの翻訳が行われて来たが、各巻のあとがきで未翻訳の巻が存在することを知った読者からは「全巻を日本語で読みたい」と言う要望が編集部に数多く寄せられ、またこの時期が岩波少年文庫の第2期ラインナップ(全72冊)の完結に伴いハードカバー重視の路線へシフトする時期と重なったことから、初訳の7巻分を含めた全巻の日本語訳が愛蔵版『ドリトル先生物語全集』全12巻として刊行されることになり、1962年(昭和37年)7月に全巻の日本語訳が完成した。 この全集における井伏の訳は児童文学作品であることを考慮し、全編にわたって読みやすい口語の文体を採用しており、阿川弘之が岩波書店の雑誌『図書』1961年10月号において「井伏訳の見事さ -ドリトル先生物語について-」と題するエッセイで本訳を絶賛しているのを始め、名訳として評価が高い[8]。 なお、井伏の述懐によれば第9巻『月から帰る』は東北地方を旅行中に翻訳していたが、仙台行きの列車内で原稿70枚分が(恐らく、札束の入った封筒と誤認されて)盗難に遭い警察へ被害届を出すと共に『週刊新潮』の「告知版」欄で犯人に返還を呼びかけたものの見つからずじまいとなり、一から翻訳し直すことになったとのことである[9]。 1978年の改版1974年(昭和49年)より岩波少年文庫は第一次オイルショックの影響でカバーを廃止した軽装版として第3期(全68冊)の刊行を開始するが、この際に従来は全集として刊行されていた『ドリトル先生』全12巻(文庫版の第10巻『秘密の湖』は上下2分冊)も全巻が収録されることになり、1978年(昭和53年)から1979年(昭和54年)にかけて全集と文庫の既刊分6点の改版、従来は全集のみで刊行されていた6点7冊の文庫化が実施された。この際の改版より、全集・文庫版とも『アフリカゆき』の巻末において石井の手になるシリーズ全般の解説と、全集の旧版で折り込みとして添付されていた月報「ドリトル先生物語全集だより」を再編集した主要キャラクターと各巻の紹介が掲載されている。 2000年の文庫改版岩波少年文庫は1985年(昭和60年)に刊行を開始した第4期(全51冊)を経て2000年(平成12年)の創刊50周年を機に現行の第5期刊行を開始し、この際に『ドリトル先生』も再度の改版を実施した。これに伴い第2巻『航海記』以降の各巻にも第三者の解説が追加され、現在では不適切とされる用語の大幅な修正などが実施されている[10]。なお、文庫の改版に際しても全集版は後者のみ対応し、文庫版に追加された解説は1978年改版のものを除いて2000年以降の重版には掲載されていない。 黒人差別をなくす会の回収要求『ドリトル先生』の原作は1970年代に米国で現在の人権感覚において人種差別的な描写が頻発するとして批判の対象となり、絶版の時期を経て1988年から1997年にかけて問題とされた箇所の削除・修正を行ったうえで復刊されたが、日本では2001年(平成13年)に黒人差別をなくす会が岩波書店に対して本全集の第1巻『アフリカゆき』と第10巻『秘密の湖』を特に問題視して岩波書店に回収を要求した[11]。この内『アフリカゆき』で問題とされた描写についてはドリトル先生アフリカゆき#作中の表現についてを参照。 『秘密の湖』に関しては、井伏訳では地名のニジェール川(Niger river)を「ニガー川」としていたが"Niger"の英語での発音は「ナイジャー」であるのに対し[12]、黒人に対する蔑称とされる「ニガー」の綴りは"nigger"であり、どちらの単語もラテン語で「黒」を意味する"niger"(ニゲル)が語源ではあるものの、明らかな誤訳である。この点に関し、岩波書店は回収措置こそ取らなかったが編集部は当該個所の誤訳については認め、2002年(平成14年)以降の重版では「ニジェール川」に修正した。この修正を受けた重版より全集・文庫とも各巻の巻末に2002年1月付の「読者のみなさまへ」と題する編集部の考え方を解説する一文が追加されている。この問題は、2002年2月5日放送のTBSラジオ「BATTLE TALK RADIO アクセス」でも取り上げられた。 2008年以降日本においては本全集の完結後、第1巻『アフリカゆき』、第2巻『航海記』、第5巻『動物園』については井伏鱒二の他に飯島淳秀、新庄哲夫、虎岩正純、前田美恵子、神鳥統夫などの訳が偕成社やポプラ社など岩波書店以外の出版社からも刊行されたが、最終巻『楽しい家』までのシリーズ完訳は2000年代まで岩波書店刊の井伏訳が唯一であった。 2008年(平成20年)5月末に原作者であるロフティングの日本における著作権の保護期間が戦時加算を含めて満了したことを受け[13]、岩波書店以外の出版社からも相次いで『アフリカゆき』『航海記』の新訳が刊行されているが、全12巻の刊行を予定しているのは河合祥一郎訳の角川つばさ文庫版(編集・発行はアスキー・メディアワークス)のみとなっている。 2010年(平成22年)7月から9月にかけて、さいたま文学館で「ドリトル先生とゆかいな家族 〜翻訳者・井伏鱒二〜」と題するテーマ展が開催された[14]。 各巻原書の刊行年は米国のF・A・ストークス(1 - 9巻)、J・B・リッピンコット(10 - 12巻)のもの。岩波少年文庫版は全12巻(『秘密の湖』は上下巻のため13冊)のセット販売も行っている。解説は第1巻『アフリカゆき』に関しては全集・文庫(共に1978年の改版以降)に共通で、2巻以降は岩波少年文庫の2000年改版のみに掲載されている。
岩波書店以外から刊行された井伏訳以下に岩波書店以外の出版社から刊行された井伏訳を参考として挙げる。
特徴的な訳本全集の翻訳作業は1940年代から1960年代前半に行われたものであり、欧米では一般的だが日本では馴染みの薄い料理や食材の名称を中心に、現代においては馴染まない訳語を使っていることも多い。以下に特徴的な訳を挙げる。
その他「全集」と銘打っているが、米英で『月へゆく』と『月から帰る』の合間に当たる1932年に刊行された番外編『ガブガブの本』は収録されていない。同書は光吉夏弥が1957年に『たべものどろぼうと名たんてい』の表題で光文社より一部エピソードの抄訳を刊行した後、南條竹則が2002年に国書刊行会より完訳版を刊行した。 各巻の装丁はイギリスのジョナサン・ケープ版を基に江森瑛子が手掛けており、この装丁は岩波少年文庫版でも1978年の改版より若干の修正を加えて使用されている。但し、ケープ版の表紙画は各巻のカラー口絵として使用しており(文庫版では1978年の改版以降、カラー口絵は削除)、岩波版における各巻の表紙画は『アフリカゆき』を除いて本編中の挿絵を転用したものになっている。『アフリカゆき』の表紙に使用されているドリトル先生の一行がアフリカ大陸へ上陸した場面のシルエット画は、ケープ版で折り返し部分に使用されているイラストの左側をトリミングしたものである。また、表紙に使用されている本編中の挿絵は1985年に岩波少年文庫が第4期の刊行を開始した際のカバー復活と多色刷り化に合わせて『航海記』『月へゆく』『秘密の湖』上・下巻の4冊につき、それ以前のものと差し替えられている。 参考文献、脚注
筑摩書房版『井伏鱒二全集』全28巻・別巻2(1996年 - 2000年)には、白林少年館版や岩波少年文庫旧版などのあとがきを始め井伏の『ドリトル先生』に関わる文章が数多く収録されている。また、各巻に添付されている月報では11巻で南條竹則、12巻で石井桃子が本訳について取り上げている。 注釈
外部リンク
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