テープレコーダーテープレコーダー(英: tape recorder)は、磁気テープなどのテープ状の記録媒体に信号を記録および再生する装置である。普通、磁気テープに磁気記録の形で電気信号を記録する。 用語成立の歴史的な経緯もあり「テープレコーダー」という用語は、特に音響を記録・再生するもの(録音再生機器)を指すために使われており、通常、テープに映像を記録する装置(ビデオテープレコーダ類)は「テープレコーダー」には含めない。したがって当項目でも音響用のものに限定して説明する。 概要![]() テープレコーダーにはオープンリール式やカセットテープ式などがあり、録音可能なものは再生も可能である[注釈 1]。コンポーネントステレオの中のテープデッキもテープに録音できるので、分類としてはテープレコーダの一種(下位分類)にあたる。日本では略してテレコと呼ばれることがあった[注釈 2]。 テープの素材は現在ではポリエステルなどのプラスチックフィルムが使われる。それ以前はアセテートが使われた。初期には紙が用いられたこともある。磁気テープは体積当たりのデータ密度が高いため、長時間録音に適するとされてきた。またアナログテープレコーダや一部の固定ヘッドデジタルテープレコーダ(通称S-DAT)では、テープを直接切断して編集する「手切り編集」(電子編集に対する用語)も可能である。同様に破損したテープを取り除き、繋ぐことでデータの破損を局所的に抑えることができる。 欠点は、経年変化による磁性層やバインダーの劣化、テープの伸び・切断・よじれなどが起きやすく[注釈 3]、鳴きと呼ばれるテープとヘッド類との摩擦音やリール部分の物理的な回転にともなう音も変調ノイズとして音を濁らせる原因となる。また磁気テープは一部を再生する場合、早送り・巻き戻しをした後でないと再生できない。つまりランダムアクセスは困難である。磁気テープという物理的なものに記録するので機械的な機構(いわゆるメカ)が必要で、小型・軽量化に限界がある。 分類スピーカー、あるいはスピーカーおよびアンプを含まず、他の音響機器と接続して使う録音・再生装置をテープデッキと言う。 据置型装置に関しては、オープンリール式のものをオープンデッキと言い、カセットテープ式のものをカセットテープデッキと言う。 また大分類としては、音響信号を連続波形のまま記録するアナログ方式と、デジタル信号に変換されたものを記録するデジタル方式とがある。 以下、細分化した分類を示す。
歴史テープレコーダー以前→「電気録音」も参照
![]() ワイヤーレコーダー (1898年) 音声信号を磁化(帯磁)で記録するというアイディアは、1888年にアメリカ人オバリン・スミスが最初に着想した。 そのアイディアを実現した最初の装置は、1898年にデンマークの発明家ヴォルデマール・ポールセン(1869年-1942年)が完成させた。そのテレグラフォン(Telegraphon)は、媒体にピアノ線を使ったワイヤーレコーダー(鋼線式磁気録音機)である[7]。 テレグラフォンに始まるワイヤーレコーダーは、人間の声を聴き取りうる実用水準で録音でき、長時間録音も可能であったが、音質向上は困難でワイヤー伸びも課題で、高価だったので一般人には普及せず、ごく一部の人に用いられたに過ぎなかった。簡易な録音機としてはトーマス・エジソンが発明した蝋管レコードの系譜に属する機械録音装置「ディクタフォン」が第二次世界大戦以前の主流であった。 テープレコーダーの始まり![]() ドイツのラジオ局で使われていた マグネトフォン (1942年以降の製品) 記録媒体に磁性体を塗布したテープを用いる方式はドイツで開発された。1928年にフリッツ・フロイメル(de:Fritz Pfleumer)が紙やプラスチック製のシートに酸化鉄を塗布した記録媒体を発明し、1933年にシューラーがリング状磁気ヘッドを発明し、化学メーカーのBASFはテープに用いるアセテート樹脂のフィルムを開発した。これらの成果を元に1935年に電機メーカーのAEGがマグネトフォンを開発した[8]。 その後、化学メーカーBASF社の協力によるテープ材質の改良(アセテート樹脂)と、1938年の五十嵐悌二、石川誠、永井健三[9][10][11]、同時期のドイツの国家放送協会のヴァルター・ヴィーベルとHans-Joachim von Braunmühl、アメリカのマーヴィン・カムラス[12]による交流バイアス方式の発明により1939年~1941年までに音質が飛躍的に改善され、マグネトフォンは実用的な長時間高音質録音装置となった。 この結果、ドイツの標準的なテープレコーダーであるマグネトフォンは第二次世界大戦中のナチス・ドイツにおいて、政治宣伝・対敵宣撫放送用のメディアとして大いに活用された。アドルフ・ヒトラーの長大な演説[注釈 4] やクラシック音楽を、レコード針等の雑音・ディスク交換による中断も無しにいつでも連続録音・再生でき、放送用記録媒体として優れていた。ラジオ放送用としてフルトヴェングラー指揮によるベルリン・フィルの演奏もテープ録音され、貴重な歴史的音源となっている[注釈 5]。この過程では、複数トラックを適切に分離して同時録音できる特徴を活かし、ステレオ録音もすでに試みられていたという。 軍用特殊用途として特筆されるのは、ドイツ海軍の潜水艦・Uボートの多くにテープレコーダーが搭載されたことである。潜水艦が発信する通信電波は敵方に自らの潜伏位置を知らせてしまう危険を伴う。そこで通信内容をテープレコーダで一旦録音し、それを早送り再生して送信した。これで無線交信時間が最小限となり、また傍受されても敵には内容解読が困難になる。第二次世界大戦後、この高速再生通信のアイデアは世界各国の軍用・外交・諜報の分野で情報秘匿通信に広く用いられるようになった。[注釈 6] ドイツの敗戦後、テープ録音技術はアメリカに移転され、民生用途に広く転用されるようになった。1947年には3M社が磁気録音テープを発売した。1948年のLPレコード開発と相前後して、高音質へのニーズが高まり、レコード会社は高音質化と長時間録音実現のため、相次いでテープレコーダーを導入する。各国の放送局でもその利便性を買われ、同時期から長時間放送や音声取材の手段として活用されるようになり、特に取材ではポータブル・テープレコーダーが広く用いられた。 以後テープレコーダーはLP・EPレコードと並ぶメディアとして、レコード制作会社や放送局だけでなく、一般家庭にも広まっていくことになった。 ![]() 日本の製品としては1950年に東京通信工業(東通工、現・ソニーグループ)が紙テープ式のモデル「G 型」を発売したのが最初である[13]。なお東京通信工業では長い間「テープコーダー」(Tapecorder)と呼び、これは同社の登録商標だった(登録番号?)。1950年代の日本の民間放送の勃興と相前後して、ソニーは取材用の可搬型のものも先んじて開発し、その商標デンスケは、同社のプロフェッショナル用携帯レコーダーの商標、愛称として使われ続けた。商標の普通名称化まで起き、ナグラなど他社の製品も含めてポータブル・テープレコーダーを指す名称として「デンスケ」を使う人も多くなった。[注釈 7] 日本における交流バイアス技術をめぐる小史東京通信工業はいち早く交流バイアス技術の重要性を見抜き、上記の五十嵐悌二、石川誠、永井健三による特許(通称永井特許、安立電気(現・アンリツ)が所有)を1949年に日本電気と共同で購入した(当時1946年に創業したばかりの東通工にとって非常に高額な投資だったので日本電気 (NEC) に半分出してもらった)。交流バイアス技術は現在のテープレコーダーにも使われているほど重要な技術で、この特許により他社は東通工製テープレコーダーの音質に全く太刀打ちできず、東通工は日本のテープレコーダー市場で高いシェアを占めることになった。 1952年、連合国軍占領下の日本を脱したその年に、東通工が、米国の貿易業者バルコム貿易が日本に輸入した米国製テープレコーダーが永井特許を侵害しているとして、輸入・販売・使用・陳列・移動などを禁止する仮処分を東京地方裁判所に申請し、9月15日に東京のバルコム貿易と日本橋高島屋、大阪心斎橋筋のミヤコ商会の三か所で米国製テープレコーダー数十台が一斉に仮差押えされるという事件が起きた。敗戦国の中小企業が戦勝国米国の企業を訴えたということで当時ニュースとなった。交流バイアス技術は米国ではイリノイ工科大学アーマー研究所 (Armour Research Foundation) のカムラス (Marvin Camras) の特許があり、米国らしくライセンスビジネスで儲けていたのである。それで米国アーマー研究所から弁護士がやってきたが、大変なことがわかってきた。 実は永井特許は米国にも出願されていたのだが、太平洋戦争が始まりそれはうやむやになってしまい、カムラスの特許が成立した。ところが永井氏の英語論文がカムラスの特許よりも早く米国で公表されていたのである。これが本当なら米国でのカムラスの特許は認められないことになり、日本国内どころか米国でのライセンスビジネス自体が崩壊してしまう。このことからアーマー研究所は大幅に譲歩し、東通工とアーマー研究所は「技術援助契約」を結ぶことで和解した。すなわち、日本国内では当然ながら永井特許が有効で、日本国内で販売される米国製テープレコーダーからは東通工と日本電気に永井特許の使用料が支払われる。また米国内で販売される東通工ならびに日本電気製テープレコーダーは米国のカムラス特許を無償で使用できる。他の日本メーカーが米国に輸出するテープレコーダーに関しては、東通工がアーマー研究所の代理人としてカムラス特許の実施許諾権を持ち、特許使用料の半分が東通工に支払われることになった。東通工は「名を捨て実を取る」和解をしたといわれる。 その一方で日本国内市場での東通工の姿勢は非常に強硬で、国内他社には決して永井特許を使わせなかった。そのため国内各社は相変わらず東通工製テープレコーダーの音質に歯が立たなかった。1954年、赤井電機が類似の「新交流バイアス」技術を使ったテープレコーダーキットを発売すると、東通工は告訴した(結果としては和解)。しかし1955年には永井特許の存続期間が終了するはずで、国内各社は交流バイアス技術を使用したテープレコーダーの商品化に向け準備を進めていた。ところが戦争により特許が充分行使できなかったという理由で特許期間が 5 年間延長されることになると国内各社は怒り狂い、東通工や通商産業省(現・経済産業省)に対する反発を強めた。あまりの風当たりの強さに東通工は1958年から永井特許の実施許諾を与えるようになった(もちろん有償)。東京通信工業はこの年の1月1日に社名をソニー株式会社に変更した。 一般家庭への普及一般家庭への普及は、扱いやすいコンパクトカセット方式、特にラジカセの普及によるところが大きい。 1960年代初頭にフィリップス社が開発したコンパクトカセットの技術が無償公開され、世界のメーカーがオープンリール式に加えてコンパクトカセット式テープレコーダーを開発・販売し、それがテープレコーダーの普及に貢献した。コンパクトカセットレコーダーに関してはアイワのほかスタンダード(マランツ)などの音響機器メーカーがモノラル据置型のレコーダーを販売した。ソニーのコンパクトカセットレコーダー第一号機は1966年(昭和41年)11月発売の「TC-100」(愛称「マガジンマチック100」)[* 1]だった。なおアポロ計画の宇宙船アポロにはソニーのカセットレコーダーTC-1010が持ち込まれた。会議録音用の小型テープレコーダーは1970年代前半ころから市場に出回った。
日本ではFM放送が1957年のNHKの実験放送から始まり、民間放送局の実験放送、1960年には民間局の実用実験放送、そして1969年には本放送が始まり、FM受信装置を持っていれば雑音の少ない高音質の放送が聞けるようになった。この状況下で一部のオーディオマニアはFM放送を単体のチューナーで受信しオープンリールで録音したが、一般家庭の人々向けにコンパクトカセット方式でラジオ受信機も内蔵した一体型装置(ラジカセ)を開発・製造すれば良く売れるだろうといち早く気づいたメーカーがあった。日本で最初のラジカセは、クラウンというメーカー(現存しないメーカー)が1967年9月に発売した「クラウン マイカセットF CRC-9100F」である。次に松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)が1967年12月に、カセットテープレコーダーと2バンドラジオ(FM・AM)を組み合わせた RQ-231を発売。1968年5月にはアイワが国産初の3バンドラジオ(FM・SW・AM)式のラジカセTPR-101を発売し、 1968年の大卒初任給平均29,100円に相当する価格でいずれも高価ではあったが、アイワのTPR-101が27,500円(現金正価25,900円)で1番安くて、大卒初任給でも手が届いた上に、操作性が良く機能的にも優れていたのでアイワのラジカセが良く売れ、海外にも輸出されロングセラーになった。1970年代には各メーカーがラジカセを開発・販売するようになった。1970年3月にはソニー(現・ソニーグループ)が同社初のラジカセ CFM-8120を発売し、続いて日立製作所や東京芝浦電気(現・東芝)、日本ビクター(現・JVCケンウッド)、三菱電機、三洋電機、シャープなども、相次いでラジカセを市場に投入した。 音質の良いFM放送が1960年代から1970年代に行われるようになった時期がラジカセの発売の時期と重なっており、エアチェックブームが起き、また1970年代なかばにはSL(蒸気機関車)の走行音やライブ演奏の音を録音する「生録(なまろく)」ブームも起き、ラジカセが一般家庭に爆発的に普及することになったのだった。 メーカーはラジカセを高音質化、高出力化させ販売台数は伸びていった。特筆すべき機種はソニーが1974年(昭和49年)に発売したCF-1980(愛称:スタジオ1980)であり、16cmのウーファーと5cmツイーターの2ウェイスピーカーを備え、アンプの出力は3W、BASSとTREBLEが独立したトーンコントロール、クロームテープポジションを選択できるスイッチ、小音量再生時に低音と高音を増強して音に厚みを加えるラウドネススイッチを備え、すなわち当時として最高音質のラジカセで、さらにミキシング機能もついておりラジオの音声とマイクの音声を混ぜたり接続コードを使いテレビの音声を録音したりして楽しむことができ、さらに視覚的にも落ち着いたスキの無いデザインで、つまり音質的にも機能的にも視覚的にも魅力的な機種だったので、販売価格が4万2800円(1974年当時の大卒の国家公務員の初任給約7万円の6割ほどの価格)と高価であったにもかかわらず70万台というラジカセ史に残る販売台数を記録し、他のメーカーもそれを模倣した製品を開発・販売してゆくことになった。 日本のラジカセ市場の規模は1978年は年間約380万台規模まで成長していた。そして1979年に三洋電機が初代U4(MR-U4)を発売し、初代機だけで100万台も売れたので、ラジカセの市場規模が1979年に450万台規模に、翌1980年には530万台へと急成長した。 利用の減少2000年代に入ってから、ランダムアクセスが可能な半導体メモリを使うデジタル技術のレコーダー類が登場したことで、取材時の録音や備忘録的な用途[注釈 8]には半導体メモリを利用し特に小型・軽量なICレコーダー、高音質の録音を長時間する場合はハードディスクレコーダーの中でも高性能のステレオマイクを備えたもの、リニアPCMレコーダー[注釈 9]が選ばれるようになってきた[注釈 10]。 2000年代以降はほとんどICレコーダーなどにとって代わられたが、録音された音声などを文字に書き起こす行為は一般にテープ起こしと呼ばれ、その名称に名残を見ることができる。 年表
使用上の注意点コンパクトカセットのレコーダーの使用上の注意点は以下の通り。
ヘッドやキャプスタン、ピンチローラは汚れやすいため、約10時間ごとを目安に清掃することが望ましく[15]、長時間清掃しないで使用すると録音や再生に悪影響を及ぼすばかりか、テープにも余計な磁気鉄粉やホコリを付着させる遠因になることがある。清掃はクリーニングカセットを使う方法のほか、無水アルコールやイソプロ液などの液体と綿棒を使い手作業で清掃できる機種も多い(取扱説明書の指示に従う。カーステレオでは困難である。)ヘッド近辺にはグリスが塗布された可動部品も多く、うっかり綿棒でグリスに触れ広げてしまうと、後でテープを汚したりレコーダーが故障する恐れがある。 なおクリーニングカセットには研磨剤入りクリーニングテープを使用した乾式とアルコールを使用する湿式があるが、乾式の場合、過度の連続使用はヘッドの摩耗を招くことがある。定期的なクリーニングには湿式が好ましい[注釈 11]。
再生専用機および3ヘッド式のレコーダー(再生ヘッドが独立している)では長期間再生をすることにより再生ヘッドが帯磁し、高域が出にくくなったり、雑音が増すことがある。この場合、カセット方式やオープンリール用のディマグネタイザー(消磁器)を利用して消磁する必要がある。一方で2ヘッド式レコーダー(録再ヘッド兼用)の場合、帯磁しても新品のカセットを挿入し、録音することで消磁する(セルフディマグネタイズ)ことが可能である。
テープに巻きたるみがあると走行不良の原因になることがあるので、確認窓からの視認でたるみがあれば、あらかじめ六角鉛筆などで巻き上げてからデッキに装填する[15]。 ![]()
上で説明した清掃を怠ったりテープの巻たるみの除去を忘れた場合のほか、結露、メカの故障、テープの消耗、ベーステープの薄い長時間テープを選択したことでも、カセットデッキのキャプスタンやピンチローラーなどの内部機構に巻きつき、テープが次々と引き出されて、最終的に引きちぎられて切断されることがある。キャプスタンなどの内部機構に巻きついた場合は、カセットデッキからカセットを取り出せなくなることも多い。また、カセットデッキからカセットを取り出せても、右の画像のようにテープが大量に引き出された状態となる。このように破損したテープでも、その部分をハサミで切り落とし、正常部分同士をスプライシングテープでつなぎ合わせることで再使用が可能だが、切断した部分の録音内容は消失する。このような状況が頻発する場合、その主な原因は、キャプスタン、ピンチローラー、アイドラー、磁気ヘッドなどの各部の汚れや経年変化による摩耗、あるいはキャプスタン、リール駆動用のゴムベルトの経年劣化である。 脚注注釈
出典
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