タトラK2
タトラK2は、かつてチェコスロバキア(現:チェコ)のプラハに存在したタトラ国営会社スミーホフ工場(→ČKDタトラ)が製造した路面電車車両(タトラカー)。チェコスロバキアを始めとする東側諸国各地の路面電車に導入された2車体連接車である[1][2]。 概要導入までの経緯1951年から製造が始まった、アメリカ合衆国の高性能路面電車・PCCカーの技術をライセンス契約の元で用いたタトラ国営会社スミーホフ工場(ČKDタトラ)の路面電車車両・タトラカーは、1960年代中盤まで1両での運用が可能な単車(ボギー車)のみが生産されていた。だが、都市によっては単車では輸送力不足、2両編成では逆に輸送力過剰となる場合が存在した他、車掌業務が存在した時代には連結運転を行う際に各車両に車掌を配置しなければならず人員の面でも問題があった。そこで求められたのが、各車体が貫通幌で繋がっており、単車よりも定員数が多い、アメリカのPCCカーには存在しなかった連接車であった[1][2]。 1964年と1965年に最初の連接車であるタトラK1が1両づつ製造され、チェコスロバキア(現:チェコ)のプラハ市電やオストラヴァ市電で試運転が実施されたが、電気機器の故障が相次いだ事で1968年までにタトラ国営会社スミーホフ工場へと返却される事態となった。それを受け、機器の見直しを行った連接車がタトラK2である[1][4]。 構造ループ線が存在する路線での運用を前提とした片運転台の2車体連接車で、乗降扉(2枚折り戸)も前後車体共に右側に2箇所存在する。両車体間には蛇腹式の幌で繋がっており、車内の連接面付近には手すりが設置されている。製造当初、車体の側面窓下にはリベットで留められたコルゲート加工を施した外板が存在したが、多くの都市では修繕・更新工事の過程で撤去されている[2][5][3]。 車内には進行方向右側(乗降扉側)に1列、左側に2列のクロスシートが配置されており、ラミネート加工もしくは合成皮革で覆った布張りの座席が用いられている。先頭車体の連接面側にある扉付近には車掌用の空間や座席が存在する。車内の暖房には電気ヒーターが用いられるが、顧客からの要望に応じて制動装置から生じた発熱を暖房に利用する事も可能である[2][5][3]。 故障が多発したK1の事例を受け、電気機器はボギー車のタトラT3を基にしているが、より大きな電流負荷に対応可能なよう抵抗器(加速器)の設計が変更されている。制動装置についてもタトラT3と同様、発電ブレーキ、ディスクブレーキ、電磁吸着ブレーキが搭載されている。製造時の集電装置は菱形パンタグラフが用いられ、最大6,153 mmの高さにある架線まで対応可能である。台車は連接部分に付随台車、それ以外に動力台車が配置されており、付随台車のディスクブレーキは機械式である[1][2]。
運用1966年に試作車が完成し、チェコ・プラハ(プラハ市電)[注釈 1]で試運転が行われた後、翌1967年から量産が始まった。導入地域や時期によって以下の形式が存在する[1][6]。
これら車両のうち、ソビエト連邦向けのK2SUはK2を超える生産両数を記録したが、連接部分の付随台車の損傷を始めとした故障が相次いだ事でモスクワ(モスクワ市電)を含む大半の都市で1980年代までに運用を離脱し、ソビエト連邦の崩壊後も残ったハルキウやエカテリンブルク(旧:スヴェルドロフスク)からも1990年代までに引退した。それ以外の国でも超低床電車導入による置き換えが進んでおり、オストラヴァ(オストラヴァ市電)からは機器流用車のヴァリオLF2R.Sを除き2018年に営業運転を終了した。その一方で後述の近代化工事が各都市の路面電車で進められている他、動態保存されている車両も多数存在しており、K2の最多導入先であるブルノ(ブルノ市電)では1983年に導入されたK2YUの1両(1123)が車体のコルゲート加工を含めた製造当時の状態に復元されている[1][4][10][6][11]。 導入都市タトラ国営会社スミーホフ工場で製造されたK2の配給が実施された都市は以下の通り。一部国名・都市名には略称を含む他、都市名は導入時のものを記す[1]。
改造1990年代以降、チェコやスロバキア、ボスニア・ヘルツェゴビナの路面電車事業者は、新型車両導入費用を削減するため既存のタトラK2に対し、車体・車内設備の修繕、制御装置や集電装置の更新、老朽化した車体の新造など各種の改造工事を施している。これらのうち、車体の新造を伴う改造工事についてはシュコダ・トランスポーテーションの傘下企業であるパルス・ノヴァ(Pars Nova a.s.)や複数の企業によるコンソーシアムであるアライアンスTWが手掛けている[12][10][13]。 チェコ、スロバキア向け
ボスニア・ヘルツェゴビナ向け
関連項目
脚注注釈出典
参考資料
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