タカエノカオリ(欧字名:Takaeno Kaori、1971年4月26日[1] - 1998年6月3日[2])は、日本の競走馬、繁殖牝馬。
福島、新潟、中京とローカル[注 1]を転戦した後、1974年、雨の中行われた桜花賞を武邦彦騎乗で制覇した。優駿牝馬(オークス)への出走も予定されていたが、脚部難のため叶わず、そのまま競走馬を引退。故郷の隆栄牧場に戻り、繁殖牝馬となった。
生涯
誕生
1971年4月26日[1]、北海道新冠町にある隆栄牧場で誕生する[3]。
母タカエミドリは道営競馬、中央競馬で走った馬で、当歳で肺炎を患ったこともあり、発育は良くなかったが、道営競馬に出してみるとレコードを記録するなど7戦5勝の活躍を見せた[6]。その後、タカエミドリはオークスを目指し中央競馬に乗り込んだが、目標への出走は断念[6]。8戦1勝の成績を残して引退すると、故郷の隆栄牧場に戻り繁殖牝馬として繋養された[6][7]。
タカエミドリに付ける相手は当初、ターキンが予定されていたが、飛渡三代治がミツコ(タカエミドリの母)の交配のため訪れた静内スタリオンステーションでヴェンチアを見かけ、交配相手の変更を決断する[6]。飛渡は手を尽くしてヴェンチアの余勢種付けの権利を一株譲り受けると、同馬とタカエミドリを交配させた[6]。そして交配の翌年、タカエミドリは、後のタカエノカオリとなる牝馬を生んだ[6]。
幼駒時代
幼名クインヴエンチアと名付けられたタカエノカオリは、父の嫌なところを受け継いだか、右後脚がねじれており、牧場関係者を落胆させた[6][7]。更に、生後3ヶ月で母タカエミドリが腸捻転のために急死する[6][8]。そのため、タカエノカオリは、祖母ミツコの乳で育てられた[9]。当初、牧場関係者はタカエノカオリにミルクを与えようとしたが、母の乳房に馴染んでいたこともあって、全く飲もうとしなかった[8]。考えた飛渡はミツコの乳を飲ませようと決意し、試しにタカエノカオリにはミツコの仔の、ミツコにはタカエノカオリのボロ(馬糞)を付けて近づけてみた[6][10]。すると、タカエノカオリはミツコの乳を飲み出し、ミツコも一、二度振り返っただけでタカエノカオリに乳を飲ませたという[10]。飛渡は当時を振り返って次のように語っている[11]。
今でもあのことは不思議でならないんですよ。きっと母親が死ぬときに“お婆ちゃん私の仔を頼みますよ”といってから、ミドリは死んでいったんだろうって、よく家族の者とも話すんですけど……。私も長いこと馬を扱ってきましたが、あんなことは初めてのことですし、これからもないでしょうね
—飛渡三代治,『蹄跡』昭和49年度、20頁。
入厩 - 競走馬デビュー
タカエノカオリは前述の脚部不安もあって、3歳の春になっても買い手がつかず、牧場に残されていた[12]。しかし、同じ隆栄牧場から出た同期の期待馬で、佐々木猛厩舎に預託されていたタカエノハナが、悪癖を覚えて騎乗者を何度も振り落とすようになり、牧場に送り返されるという事態が発生する[注 2][11][12]。5月、この馬の代わりとしてタカエノカオリが同厩舎に送られた[13]。厩舎に来た当時のタカエノカオリは背中の毛が伸びきっており[注 3]、また、40度の熱もあった[13]。関係者は皆「これは走らない」と思ったというが、新馬戦の頃になると一番時計を出すようになっていた[13]。
3歳の9月、福島の新馬戦に出走し、デビュー戦を勝利で飾るが、続く東北3歳ステークスでは「アラブの魔女」とも呼ばれたイナリトウザイの5着に敗れた[注 4][14][15]。タカエノカオリは福島を後にして新潟に転戦し、チューリップステークスに出走[14]。このレースでは2着に入ったが、次戦の新潟3歳ステークスでは大差の殿負けを喫した[14]。3歳暮れには、寒さの影響から両前脚の蹄が割れる怪我を負ってしまう[16]。担当厩務員の山内はタカエノカオリと寝食を共にし、湿布を施すなどして蹄の回復に努めた[16]。
蹄が完治した後[17]、4歳春に中京開催の条件戦(200万下)に出走[14]。復帰戦を勝利で飾ると、続くカトレア賞も連勝し、桜花賞に駒を進めた[14]。山内は中京最後のレースを武邦彦に見てもらい[18]、「桜花賞へ行くから頼む」と騎乗を依頼[19]。春に乗る有力牝馬がまだいなかった武は快諾し、桜花賞の鞍上が決定した[20]。
桜花賞 - 引退
1950年の第10回(トサミツル)以来、雨中の開催となった桜花賞は[21]、牝馬クラシックの中心と目されていたイットー[注 5]のほか、レスターホース、タマキジヨーが戦線離脱しており、本命馬不在といわれた[注 6][24]。その中で1番人気は、前年の北海道シリーズを好走し、トライアルの阪神牝馬四歳特別でエビスオールの2着[25]に入ったサクライワイで、タカエノカオリは4番人気に支持された[26]。
ゲートが開くと、タカエノカオリはサクライワイに次いで抜け出したが、第二コーナーでは抑えて好位につけた[27]。向正面では先行グループから2馬身離れた位置を追っていき、第四コーナーを回るとユウダンサーズ、フジノタカザクラ、サクライワイと馬体を併せる格好となった[28]。この中でサクライワイが抜け出すが、タカエノカオリも追って並びかけると、同馬を交わし、最後は4分の3馬身の差をつけて勝利した[28]。武にとっては一昨年のアチーブスターに次いで二度目、佐々木厩舎にとっては初の桜花賞制覇となった[23]。
桜花賞の勝利後、タカエノカオリは隆栄牧場に帰郷したが、蹄がひび割れ、腰も痛めていた[29]。その後はオークスへの出走を予定していたが、4月27日の調教後に脚部を故障[注 7][30][31]。大事を取ってオークスを断念し、そのまま競走馬引退となった[30]。なお、桜花賞(阪神開催)以外はいずれもローカルでの出走であり、関東馬でありながら東京、中山での出走は一度も無かった[9]。
引退後
引退後、隆栄牧場で繁殖牝馬として繋養され、初年度の相手はハイセイコーの父としても知られるチャイナロックが選ばれた[32]。生涯で十数頭の産駒を出したが[33]、準オープンクラスを走ったクラシックウィナーが注目を集めた程度で、自身の成績を越える馬は出せなかった[34]。1997年に用途変更[35]、翌1998年6月3日に同牧場で老衰のため死亡した[2][33]。
評価等
馬体・評価
桜花賞当時の体重は436kg[注 8]と小さく、見映えのしない体格であった[29]。性格は大人しかったという[29]。前述のとおり、産まれながらに足がよじれていたが、これは飛渡が丹念に外へ向け続け、走れる状態にまで矯正した[37]。中京でタカエノカオリを見た武は、スピードもあって根性も抜群と感じ[19]、「非常に乗り易い馬」との印象を持ったという[14]。
『優駿』主催の1974年最優秀4歳牝馬投票では、満票近くを獲得して選出されたトウコウエルザ(598点)に次ぐ得点(117点)を集めた[注 9][38]。また、同年のフリーハンデ(4歳馬)では55kgの評価を受けている[注 10][39]。
原良馬との関係
競馬評論家の原良馬が愛した馬であった[2]。原が現役時代のタカエノカオを見たのは桜花賞の一戦だけであったが[26]、その華麗な走りに衝撃を受け、忘れられない一頭となっていた[40]。その後、同馬の生い立ちや境遇を知り、より思いを寄せるようになったという[26]。原は、ローカルを次々と転戦するタカエノカオリに、少年時代に淡い恋心を抱いていたサーカスの少女を重ね合わせ、“流転の少女カオリ”と名づけ、何度も牧場に会いにいっていた[41]。
多くのファンから「想い出の馬は?」と聞かれるいま、迷わず口をついて出てくるのは、このタカエノカオリの名前である。私にとってタカエノカオリだけは、ふれあった一頭のサラブレッドというより、恋こがれてきたゆきずりの“流転の少女”なのである。
その戦績は7戦4勝。しかし4歳時は3戦3勝。惜しまれつつターフを去っていった“薄幸な少女”だった。
—原良馬,『心に残る名馬たち』72頁。
成績
競走成績
成績表は流星社(2000)[注 11][42]、netkeiba.com[43]の情報に基づく。
競走日
|
競馬場
|
競走名
|
距離(馬場)
|
頭 数
|
枠 番
|
馬 番
|
人気
|
着順
|
タイム
|
騎手
|
斤量 [kg]
|
馬体重 [kg]
|
勝ち馬/(2着馬)
|
1973.
|
09.
|
22
|
福島
|
3歳新馬
|
芝1000m(稍)
|
8
|
3
|
3
|
3人
|
1着
|
1:00.9
|
山田広士
|
52
|
440
|
(ミマツダンデイ)
|
|
10.
|
14
|
福島
|
東北3歳S
|
芝1000m(稍)
|
9
|
5
|
5
|
9人
|
5着
|
1:00.9
|
山田広士
|
52
|
446
|
イナリトウザイ
|
|
10.
|
28
|
新潟
|
チューリップS
|
芝1200m(重)
|
8
|
5
|
5
|
4人
|
2着
|
1:12.0
|
山田広士
|
52
|
442
|
ミトモオー
|
|
11.
|
17
|
新潟
|
新潟3歳S
|
芝1600m(重)
|
7
|
6
|
6
|
6人
|
7着
|
1:45.0
|
山田広士
|
52
|
434
|
インタージャンボ
|
1974.
|
02.
|
24
|
中京
|
4歳200万下
|
ダ1600m(良)
|
8
|
4
|
4
|
1人
|
1着
|
1:40.9
|
坂本恒三
|
52
|
442
|
(ダイヤフルート)
|
|
03.
|
09
|
中京
|
カトレア賞
|
芝1800m(良)
|
10
|
8
|
10
|
1人
|
1着
|
1:51.0
|
坂本恒三
|
54
|
436
|
(ウラカワジェンヌ)
|
|
04.
|
07
|
阪神
|
桜花賞
|
芝1600m(良)
|
25
|
1
|
2
|
4人
|
1着
|
1:37.0
|
武邦彦
|
55
|
436
|
(サクライワイ)
|
繁殖成績
|
生年
|
馬名
|
性
|
毛色
|
父
|
戦績
|
出典
|
00初仔
|
1975年
|
カシユウケンザン
|
牡
|
黒鹿毛
|
チヤイナロック
|
38戦1勝
|
[44]
|
02番仔
|
1976年
|
タカエノレデイ
|
牝
|
黒鹿毛
|
ネヴアービート
|
16戦2勝
|
[45]
|
03番仔
|
1977年
|
ハイトランプ
|
牡
|
鹿毛
|
テスコボーイ
|
13戦2勝
|
[46]
|
04番仔
|
1978年
|
サンシヤインレデイ
|
牝
|
鹿毛
|
フアバージ
|
18戦1勝
|
[47]
|
05番仔
|
1979年
|
シマノカオリ
|
牝
|
鹿毛
|
ボールドラツド
|
4戦0勝
|
[48]
|
06番仔
|
1980年
|
シマノスキー
|
牡
|
鹿毛
|
マルゼンスキー
|
1戦0勝
|
[49]
|
07番仔
|
1981年
|
タカエノソロン
|
牝
|
鹿毛
|
パーソロン
|
3戦1勝
|
[50]
|
08番仔
|
1982年
|
タカエスタイブ
|
牡
|
鹿毛
|
パーソロン
|
4戦0勝
|
[51]
|
09番仔
|
1983年
|
タカエダイアナ
|
牝
|
鹿毛
|
デユデナム
|
|
[52]
|
10番仔
|
1984年
|
イチシュウコー
|
牡
|
黒鹿毛
|
デユデナム
|
|
[53]
|
|
1985年
|
不受胎
|
|
|
トウシヨウボーイ
|
|
[54]
|
11番仔
|
1986年
|
タカエノミチ
|
牝
|
黒鹿毛
|
キヤタオラ
|
|
[55]
|
12番仔
|
1987年
|
クラシックウィナー
|
牡
|
鹿毛
|
ロイヤルスキー
|
71戦16勝
|
[56]
|
13番仔
|
1988年
|
タカエシャネル
|
牝
|
鹿毛
|
コリムスキー
|
37戦5勝
|
[57]
|
|
1989年
|
双子流産
|
|
|
サクラシヨウリ
|
|
[58]
|
|
1990年
|
不受胎
|
|
|
ニシノスキー
|
|
[59]
|
14番仔
|
1991年
|
タカエスピード
|
牝
|
鹿毛
|
ニシノスキー
|
4戦1勝
|
[60]
|
15番仔
|
1992年
|
タカエノカオリの1992
|
牝
|
不明
|
ニシノスキー
|
|
[61]
|
16番仔
|
1993年
|
コマノタカエスキー
|
牡
|
鹿毛
|
ニシノスキー
|
10戦0勝
|
[62]
|
17番仔
|
1994年
|
タカエジュエリー
|
牝
|
鹿毛
|
ニシノスキー
|
36戦2勝
|
[63]
|
|
1995年
|
流産
|
|
|
ミスターシービー
|
|
[64]
|
|
1996年
|
種付けせず
|
|
|
|
|
[64]
|
|
1997年
|
不受胎
|
|
|
ビーフロスト
|
|
[64]
|
1997年1月1日用途変更[35]
|
血統表
注釈・出典
注釈
- ^ 中央競馬を開催する競馬場のうち、東京、中山、京都、阪神以外の競馬場のこと。地方場所とも[5]。
- ^ 風にゆらぐ旗に驚いたのがきっかけとされる[13]。
- ^ 人が乗っていないことを意味する[13]。
- ^ アングロアラブに敗れたことがあるクラシック勝利馬は、タカエノカオリとラプソデー(セントライト記念でセイユウに敗れた後、菊花賞を制す。)の二頭のみである[9]。
- ^ イットー陣営は、桜花賞に出走できないとわかっていながら、クラシック最終登録を行っている[22]。
- ^ そのため、この桜花賞は“乱れザクラ”ともいわれた[23]。
- ^ 『優駿』1974年6月号では「3月27日〔ママ〕の調教後、軽い脚部難を発生」、1974年8月号では「49.4.27 左前脚球節炎」とある。
- ^ 北海タイムス(1975)では438kgとなっているが、『中央競馬年鑑』昭和49年記載の馬体重を採った[36]。
- ^ 投票総数86名、筆頭7点、次点3点で計算。トウコウエルザは筆頭85票、次点1票、タカエノカオリは筆頭0票、次点39票であった[38]。
- ^ トップハンデはキタノカチドキ(64kg)、牝馬ではトウコウエルザ(57kg)[39]。
- ^ 流星社(2000)掲載の成績表では、桜花賞の馬体重欄が"4.6"となっているため、この部分は『中央競馬年鑑』昭和49年記載の数値によった[36]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m “タカエノカオリ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年12月15日閲覧。
- ^ a b c d 原良馬「タカエノカオリ」『サラブレッド99頭の死に方』流星社、2000年、60頁。
- ^ a b c d 「親なし仔のでっかいプレゼント」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会、16頁。
- ^ a b c 『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会、1975年、15頁。
- ^ “競馬用語解説(た行) 中央場所(ちゅうおうばしょ)”. ホッカイドウ競馬. 2024年12月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 「親なし仔のでっかいプレゼント」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会優駿編集部、19頁。
- ^ a b 「タカエノカオリ」『「優駿」観戦記で甦る桜花賞十番勝負』小学館文庫、1999年、166頁。
- ^ a b 「タカエノカオリ」『「優駿」観戦記で甦る桜花賞十番勝負』小学館文庫、1999年、167頁。
- ^ a b c 瀬上保男「【ケイバ万華鏡】“裏街道”から栄冠」『読売新聞』1999年4月5日付東京夕刊、3頁。
- ^ a b 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、65頁。
- ^ a b 「親なし仔のでっかいプレゼント」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会優駿編集部、20頁。
- ^ a b 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、66頁。
- ^ a b c d e 萱谷基之「タカエノカオリと山内さん」『優駿』1974年6月号、日本中央競馬会、28頁。
- ^ a b c d e f 「第35回桜花賞」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会優駿編集部、14頁。
- ^ 関口秀之 (2017年10月2日). “【地方競馬】ゴーディーの先祖はアラブの魔女”. デイリースポーツ online. デイリースポーツ. 2024年12月12日閲覧。
- ^ a b 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、67頁。
- ^ 原良馬「タカエノカオリ」『サラブレッド99頭の死に方』流星社、2000年、65頁。
- ^ 萱谷基之「タカエノカオリと山内さん」『優駿』1974年6月号、日本中央競馬会、29頁。
- ^ a b 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、68頁。
- ^ 「タカエノカオリ」『「優駿」観戦記で甦る桜花賞十番勝負』小学館文庫、1999年、171頁。
- ^ 「第35回桜花賞」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会優駿編集部、12頁。
- ^ 寺田文雄「イットー 一刀両断」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、404頁。doi:10.11501/12441232。
- ^ a b 「ゴール前せりあいタカエノカオリに 桜花賞」『朝日新聞』東京朝刊、1974年4月8日付、14頁。
- ^ 寺田文雄「サラ系四歳」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会優駿編集部、1975年、125頁。
- ^ 『中央競馬年鑑』 昭和49年、日本中央競馬会、1975年、60頁。doi:10.11501/12431136。
- ^ a b c 原良馬「タカエノカオリ」『サラブレッド99頭の死に方』流星社、2000年、61頁。
- ^ 『中央競馬年鑑』 昭和49年、日本中央競馬会、1975年、61頁。doi:10.11501/12431136。
- ^ a b 「第35回桜花賞」『蹄跡』 昭和49年度、日本中央競馬会優駿編集部、13頁。
- ^ a b c 「第一部優駿のふるさと 馬は愛から」『北海道の競馬』北海タイムス社、1975年、18頁。
- ^ a b 「サークル便り」『優駿』 1974年6月号、日本中央競馬会、82頁。
- ^ 宇佐美恒雄 司会「現代サラブレッドはなぜ脆い」『優駿』1974年8月号、日本中央競馬会、15頁。
- ^ 「第一部優駿のふるさと 馬は愛から」『北海道の競馬』北海タイムス社、1975年、21頁。
- ^ a b 原良馬「タカエノカオリ」『サラブレッド99頭の死に方』流星社、2000年、66頁。
- ^ 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、71頁。
- ^ a b “タカエノカオリ”. 血統書サービス. ジャパン・スタッドブック・インターナショナル. 2024年12月12日閲覧。
- ^ a b 『中央競馬年鑑』 昭和49年、日本中央競馬会、1975年、110頁。doi:10.11501/12431136。
- ^ 「第一部優駿のふるさと 馬は愛から」『北海道の競馬』北海タイムス社、1975年、19頁。
- ^ a b 「昭和49年年度代表馬・各最優秀馬選出」『優駿』1975年2月号、日本中央競馬会、10頁。
- ^ a b 西田秀夫ほか「'74年のフリーハンデ」『優駿』1975年2月号、日本中央競馬会、61頁。
- ^ 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、62頁。
- ^ 原良馬「“流転の少女”、女王の座へ タカエノカオリ」『心に残る名馬たち』PHP研究所、1996年、70-71頁。
- ^ 原良馬「タカエノカオリ」『サラブレッド99頭の死に方』流星社、2000年、67頁。
- ^ “タカエノカオリの競走成績”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2024年11月27日閲覧。
- ^ “カシユウケンザン”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “タカエノレデイ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “ハイトランプ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “サンシヤインレデイ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “シマノカオリ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “シマノスキー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “タカエノソロン”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “タカエスタイブ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “タカエダイアナ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “イチシュウコー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ 『サラブレッド血統書』 第12巻、日本軽種馬登録協会、1988年、1054頁。
- ^ “タカエノミチ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “クラシックウィナー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “タカエシャネル”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ 『サラブレッド血統書』 第13巻、日本軽種馬登録協会、1992年、1125頁。
- ^ 『サラブレッド血統書』 第14巻、日本軽種馬登録協会、1995年、1142頁。
- ^ “タカエスピード”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “[タカエノカオリの1992]”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “コマノタカエスキー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ “タカエジュエリー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月29日閲覧。
- ^ a b c 『サラブレッド血統書』 第15巻、日本軽種馬登録協会、1999年、1073頁。
- ^ “5代血統表タカエノカオリ”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2024年11月17日閲覧。
- ^ a b c “タカエノカオリの血統表”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2024年11月17日閲覧。
参考文献
雑誌
- 『優駿』日本中央競馬会
- 1974年6月号 萱谷基之「タカエノカオリと山内さん」
- 1974年6月号「サークル便り」
- 1974年8月号 宇佐美恒雄 司会「現代サラブレッドはなぜ脆い」
- 1975年2月号「昭和49年年度代表馬・各最優秀馬選出」
- 1975年2月号 西田秀夫ほか「'74年のフリーハンデ」
外部リンク
|
---|
1930年代 | |
---|
1940年代 | |
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|