ワンダーパヒューム
ワンダーパヒュームは、日本の競走馬。1995年に行われた第55回桜花賞を優勝したが、翌1996年にレース中の故障で安楽死となった。 ※年齢は旧表記 戦歴4歳ワンダーパヒュームは1995年1月8日、京都の新馬戦で1番人気だったのちのGI4勝馬マヤノトップガン[1]を抑えて勝ち上がった。 パヒュームはその後、寒梅賞(500万下条件)3着、アネモネステークス(桜花賞トライアルのオープン特別)2着を経て、1995年4月9日桜花賞[2]に出走した。公営・笠松競馬所属の競走馬ライデンリーダーが注目を集め、ダンスパートナーやプライムステージといった有力馬がいる中、パヒュームは1勝馬であることもあり7番人気に留まる[3]。レースでは初騎乗となった田原成貴の手綱に導かれて、ダンスパートナーらの追撃を振り切り、優勝した。パヒュームの優勝タイムである1分34秒4は当時の桜花賞レコードであった。 続くオークスでは、桜花賞勝ちがフロック視されたうえ、短距離向きの血統であることからパヒュームは7番人気に甘んじた。だが、パヒュームは低評価を覆し、3着と健闘した。 秋はローズステークス4着からエリザベス女王杯に出走したが16着と惨敗。続く阪神牝馬特別でも10着に敗れ、この年を終えた。 最期翌1996年1月28日、古馬になったパヒュームは引退を賭けて、前年の桜花賞と同じ京都競馬場の芝1600メートルで行われる京都牝馬特別に出走した。ここ2戦惨敗が続いていたパヒュームは適距離であることから2番人気に支持された。ところが、パドックを見ていた解説の大川慶次郎は「パヒュームは明らかに調子が良くない」とパヒュームの調子を不安視していた。 大川の予言は最悪な形で的中することになる。パヒュームはレース中に3コーナー過ぎで故障し、競走を中止してしまう。診断の結果、左前脚複雑骨折を発症していたパヒュームは予後不良と診断され、安楽死の措置が採られた。 パヒュームの墓は故郷、浦河町の信岡牧場にある。 死後パヒュームの死から3年後、全弟のワンダーファングがスプリングステークスを勝利し、クラシック戦線を賑わせたが、障害転向後の三木ホースランドパークジャンプステークスで故障発生し、予後不良となっている。 競走成績
血統表
父フォティテンはフランスで走り、通算10戦2勝。G3シェーヌ賞勝ち。 祖父ヌレイエフについては同馬の項を参照。 母ラブリースターは「天馬」と賞された名種牡馬トウショウボーイの初年度産駒で、通算31戦6勝。4歳時にエリザベス女王杯3着、5歳時に金鯱賞と北九州記念に優勝している[3] 。5歳時の主戦騎手が田原成貴であった。 全兄ワンダーワイルは中央競馬で4勝。 全弟ワンダーファングはスプリングステークス優勝など中央競馬で4勝(うち障害1勝)。 脚注外部リンク
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