ジョニー・バレンド
"ハンサム" ジョニー・バレンド("Handsome" Johnny Barend、本名:John R. Behrend、1929年3月27日 - 2011年9月20日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー[2]。ニューヨーク州ロチェスター出身[2]。 「ハンサム」の異名通りの伊達男系ヒールとして、地元のアップステート・ニューヨークからキャリア後期の主戦場となったハワイまで、各地で活躍した[4]。 来歴少年時代よりレスリングを始め、ハイスクール卒業後はアメリカ海軍でもレスリングで活躍[4]。オリンピックへの出場も見込まれたが除隊し、バッファローのプロモーターでもあったエド・ドン・ジョージに師事してプロに転向[4]、1948年10月13日に地元のロチェスターにてデビューする[2]。 以降、1950年代は主にベビーフェイスのポジションで活動し、1955年7月28日にはサンフランシスコにてエンリケ・トーレスと組み、ジン・キニスキー&ロード・ブレアースから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取[5]。1957年から1959年にかけてはオハイオ地区において、バディ・ロジャースとイースタン・ヘビー級王座を争った[6]。 その間の1958年9月、日本プロレスに初来日。シリーズ開幕戦である9月5日の蔵前国技館大会において、力道山と組んでドン・レオ・ジョナサン&スカイ・ハイ・リーと対戦した[7]。この試合は『三菱ダイヤモンド・アワー プロレスリング中継』の初回放送で生中継された[8]。当時は日本陣営が手薄だったこともあり、来日中はその二枚目ぶりを買われ、外国人ベビーフェイスとなって力道山のパートナーを務めたが、終盤戦からは外国陣営に戻って力道山&豊登とタッグマッチで対戦している[7]。 1960年よりヒールに転向して、オハイオ地区でマグニフィセント・モーリスとタッグチームを結成。ミスター・クリーンこと後のグラン・ウィザードをマネージャーに迎え、ステッキにマント、シルクハットという出で立ちのショーマン派スタイルに変身する[4][9]。以降、同年12月のオハイオ・タッグ王座戴冠を皮切りに、各地のタッグマッチ戦線を席巻した[4][10]。 1962年、WWWFの前身であるキャピトル・レスリング・コーポレーションに単身で参戦し、旧敵のロジャースと新コンビを結成。7月5日にワシントンDCにおいて、ジョニー・バレンタイン&ボブ・エリスからUSタッグ王座を奪取した[11]。後にモーリスもサーキットに加わり、ロジャースを交えたトリオも実現[12]。1963年より発足したWWWFでは、ボボ・ブラジルを相手にUSヘビー級王座を争うなどシングルでの実績も残している[13]。ブルーノ・サンマルチノが保持していたWWWF世界ヘビー級王座にも度々挑戦した[14]。 1964年6月、モーリスとのコンビで日本プロレスに再来日。7月23日に新潟県三条市でザ・スポイラー(ビンセント・バガラ)、8月17日に大阪府立体育館でモーリスと組み、豊登&ジャイアント馬場が保持していたアジアタッグ王座に2回挑戦した[15]。来日中は馬場や豊登、吉村道明とのシングルマッチも行われた[16]。 1966年より、モーリスとのコンビを解消してハワイに主戦場を移し、2月2日にハワイ版のUSヘビー級王座を獲得[17]。長期政権を築き、カーティス・イヤウケアともタイトルを争った[17]。1969年11月5日にはペドロ・モラレスを下して北米ヘビー級王座も奪取[18]。戴冠中の1970年2月18日にはホノルルにて、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦して引き分けている[19]。 その後もハワイでの活動を続け、キャリア末期となる1972年3月22日にはスウィート・ダディ・シキを破って北米ヘビー級王座に返り咲き、7月26日にフレッド・ブラッシーに敗れるまで戴冠した[18]。 引退後は故郷のロチェスター近郊に晩年まで居住していた[4]。2011年9月20日、82歳で死去[3]。 得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク
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