クローカー (潜水艦)
クローカー (USS Croaker, SS/SSK/AGSS/IXSS-246) は、アメリカ海軍 の潜水艦 。ガトー級潜水艦 の一隻。艦名は鳴き声を上げるスズキ目 ニベ科 の総称に因む。
アトランティック・クローカー(Atlantic croaker )
ホワイト・クローカー(White croaker )
艦歴
「クローカー」は1943年4月1日にコネチカット州 グロトン のエレクトリック・ボート 社で起工する。1943年12月19日にウィリアム・H・P・ブランディ (英語版 ) 少将の夫人によって進水し、艦長ジョン・E・リー中佐(アナポリス 1930年組)の指揮下1944年4月21日に就役する。ニューロンドン を出航し、6月26日に真珠湾 に到着した。
第1の哨戒 1944年7月 - 8月
7月19日、「クローカー」は最初の哨戒で東シナ海 および黄海 に向かった[ 7] 。8月6日夜、北緯32度10分 東経129度50分 / 北緯32.167度 東経129.833度 / 32.167; 129.833 の甑島列島 近海で3,500トン輸送船を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった[ 8] 。浮上して追撃の上、1時間後に北緯31度50分 東経130度05分 / 北緯31.833度 東経130.083度 / 31.833; 130.083 の地点で再度魚雷を3本発射したが、この攻撃も成功しなかった[ 9] 。8月7日12時過ぎ、北緯32度09分 東経129度53分 / 北緯32.150度 東経129.883度 / 32.150; 129.883 の長崎 の真南、牛深 の西方洋上で駆潜艇 と対潜哨戒機に護衛され航行をしていた軽巡洋艦 「長良 」を発見した[ 10] [ 11] 。「クローカー」は魚雷を4本発射したが[ 12] 、「長良」がジグザグ航行で転舵したため、魚雷は逸れたと半ば諦めかけていた。ところが、2分後に「長良」が元の進路に戻ってきたため[ 13] 、12時22分に魚雷1本が右舷後方に命中[ 12] 。「長良」は艦首を上にして間もなく沈没し、「クローカー」はその様子を潜望鏡越しにカラームービーで撮影した[ 13] [ 14] 。8月14日未明には、北緯37度30分 東経125度08分 / 北緯37.500度 東経125.133度 / 37.500; 125.133 の地点でレーダーにより目標を探知し、魚雷を6本発射[ 15] 。うち2本が命中し、特設運送船「第七大源丸 」(名村汽船、1,289トン)を撃沈した。8月16日夜にも北緯36度15分 東経125度50分 / 北緯36.250度 東経125.833度 / 36.250; 125.833 の地点で9ノットで航行する哨戒艇を発見し、魚雷を1本だけ発射[ 16] 。魚雷は特設掃海艇「太東丸 」(西日本汽船、267トン)に命中し、爆発と閃光を残して沈没した[ 17] [ 18] [ 19] 。日本側が「太東丸」の沈没を知ったのはいく日か経ってからのことだった[ 20] 。翌8月17日未明、北緯35度33分 東経126度10分 / 北緯35.550度 東経126.167度 / 35.550; 126.167 の地点でレーダーにより目標を探知した「クローカー」は、魚雷を二度にわたり3本ずつ発射[ 21] 。1本がエラーを起こしたものの、魚雷は2本が輸送船「山照丸 」(山下汽船、6,862トン)に命中し、同船は3分で沈没した[ 22] 。日本側は触雷を疑っていた[ 23] 。この攻撃で「クローカー」は魚雷を使い果たした[ 22] 。8月18日から8月20日までは、B-29 の支援にあたった[ 22] 。8月31日、43日間の行動を終えてミッドウェー島 に帰投。一連の功績で海軍殊勲部隊章を受章した。
第2の哨戒 1944年9月 - 11月
9月23日、「クローカー」は2回目の哨戒でエスカラー (USS Escolar, SS-294 )、パーチ (USS Perch, SS-313 ) とウルフパック "Millican's Marauders"(ミリカンの略奪者)を構成し、東シナ海および黄海に向かった[ 24] 。10月9日夜、「クローカー」は北緯32度20分 東経128度58分 / 北緯32.333度 東経128.967度 / 32.333; 128.967 の地点でレーダーで目標を探知し、目標に接近した上で魚雷を4本発射[ 25] 。魚雷は4本全てが輸送船「神喜丸 」(栗林商船 、2,211トン)に命中し、間隔の短い爆発が続いたのち沈んでいった[ 26] 。10月12日未明には北緯32度11分 東経129度41分 / 北緯32.183度 東経129.683度 / 32.183; 129.683 の地点で掃海艇 と思しき艦艇を発見し、魚雷を3本発射して全て命中させ、目標を撃沈したと判断された[ 27] 。10月17日朝、「クローカー」は北緯33度05分 東経128度27分 / 北緯33.083度 東経128.450度 / 33.083; 128.450 の地点でサンパン を発見し、40ミリ機関砲と20ミリ機銃の射撃で撃ち沈めた[ 28] 。10月23日未明にも北緯35度29分 東経126度05分 / 北緯35.483度 東経126.083度 / 35.483; 126.083 の朝鮮半島 南西岸海域で輸送船「白蘭丸 」(白洋汽船、887トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本が命中し、白蘭丸は沈没していった[ 29] 。間もなく3隻のスクーナー が現れ、40ミリ機関砲と20ミリ機銃の射撃で、30トン級スクーナーを破壊した[ 30] 。10月24日明け方、「クローカー」は北緯33度00分 東経125度49分 / 北緯33.000度 東経125.817度 / 33.000; 125.817 の済州島 西岸北方沖で、レーダーにより輸送船団と思しき複数の目標を探知する[ 31] 。モマ06船団に接近した「クローカー」は、4時すぎになって大型輸送船に対して魚雷を3本発射し、続いて別の大型輸送船に対して魚雷を2本、中型輸送船に対して艦尾発射管から魚雷を4本発射する[ 32] 。魚雷は1本が輸送船「月山丸」(日本海汽船 、4,515トン)の船尾に命中し大破させ、月山丸は済州島に曳航されていった[ 33] 。「クローカー」はモマ06船団を追跡し続け、2隻の輸送船と1隻の護衛艦に向けて魚雷を4本発射[ 34] 。魚雷は輸送船「御影丸 」(武庫汽船、2,741トン)に1本が命中し撃沈した。「クローカー」はモマ06船団への攻撃で魚雷を使い果たしたため帰投することとし、11月4日から5日にかけてミッドウェー島に寄港[ 35] 。11月10日、48日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がウィリアム・B・トーマス少佐(アナポリス1936年組)に代わった。
第3、第4、第5、第6の哨戒 1944年12月 - 1945年8月
12月13日、「クローカー」は3回目の哨戒でソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276 )、ポンポン (USS Pompon, SS-267 ) およびアスプロ (USS Aspro, SS-309 ) とウルフパックを組んでルソン海峡 および南シナ海 方面に向かった[ 36] 。12月25日にサイパン島 タナパグ湾 (英語版 ) に寄港するが、その夜に第七六二海軍航空隊 の銀河 などによる空襲に遭遇する[ 37] [ 38] 。翌12月26日にタナパグ湾を出港し[ 39] 、哨区に到着。1945年に入りリンガエン湾 上陸に先立って行われた、第38任務部隊 (ジョン・S・マケイン・シニア 中将)や第7艦隊 (トーマス・C・キンケイド 中将)によるルソン島 への攻撃、ルソン島の戦い およびグラティテュード作戦 に対しての救助支援任務に従事することとなった。この哨戒では哨戒艇以上の敵艦と遭遇することはなく、攻撃機会もなかった[ 40] 。2月12日、60日間の行動を終えてフリーマントル に帰投した。
3月12日、「クローカー」は4回目の哨戒でインドシナ半島 方面に向かった[ 41] 。この哨戒では修理のため、2度ほど細かい修理のためにフリーマントルやエクスマウス湾 (英語版 ) に一時帰還することもあった。また、この哨戒においても攻撃の機会はなかった[ 42] 。4月22日、42日間の行動を終えてスービック湾 に帰投した。
5月15日、「クローカー」は5回目の哨戒でジャワ海 に向かった[ 43] 。5月30日夜、南緯05度09分 東経112度36分 / 南緯5.150度 東経112.600度 / -5.150; 112.600 のジャワ海で護衛艦を伴った3隻のタンカーと思しき船のいる輸送船団を発見し、魚雷を6本発射する[ 44] 。6本のうち1本が2,800トン級タンカーに命中して目標は沈没したと判断される[ 45] 。続いて護衛艦に対して魚雷を3本発射し、1本が命中してこれも撃沈したと判定された[ 46] 。三番目の目標に対しても魚雷を計8本発射したが、三番目の目標に対する二度の攻撃は成功せず[ 47] 、三度目の攻撃で魚雷を4本発射し、1本をが2,800トン級タンカーに命中させて沈め、ようやく敵を一掃することができたと記録した[ 48] 。一連の攻撃で特設駆潜艇「研海丸」(日本海洋漁業 、89トン)[ 49] に護衛された2隻のシャトルボート、「第146号交通艇 」および「第154号交通艇 」を撃沈した[ 50] 。6月5日、22日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
7月1日、「クローカー」は6回目の哨戒で南シナ海および香港 方面に向かった[ 51] 。この哨戒では一貫して空襲部隊の救助支援を担当した。8月7日から9日まで台風 に翻弄され[ 52] 、8月13日から14日にかけてはスービック湾に寄港する[ 53] 。8月22日、47日間の行動を終えてサイパン島に帰投した[ 54] 。
戦後
バッファローで公開される記念艦クローカー
「クローカー」はサイパン島を出港し、真珠湾、パナマ運河 を経て9月25日にテキサス州 ガルベストン 寄港したのちニューロンドンに凱旋。その後は1946年5月15日に退役し、大西洋予備役艦隊入りする。
1951年5月7日に再就役した「クローカー」は、ニューロンドンで訓練艦としての任務に従事した。1953年3月18日に予備役となり、ポーツマス海軍造船所 で対潜潜水艦への転換が行われる。1953年4月9日に SSK-246 (対潜潜水艦)へ艦種変更され、1953年12月11日に再就役する。1954年2月に現役復帰し、東海岸及びカリブ海 で活動、1957年と58年にはNATO の演習に参加しイギリス の港を訪問した。
「クローカー」は1959年8月に再び SS-246 に艦種変更される。1960年2月に特別潜水艦演習が行われ、再びイギリスを訪れる。9月に地中海 、スエズ運河 を経由し様々な中東の港及びパキスタン のカラチ を訪問した。12月半ばにニューロンドンに帰還する。
1967年5月、「クローカー」は AGSS-246 (実験潜水艦)に艦種変更され、1968年4月2日に退役する。1971年12月20日に除籍され、同月に IXSS-246 (雑役潜水艦)に艦種変更された。1988年以降はニューヨーク州 バッファロー のバッファロー・エリー郡海軍軍事公園 (英語版 ) で博物館船として公開されている。
「クローカー」の6度の哨戒のうち、第1、第2、第5、第6が成功として記録された。第二次世界大戦 の戦功で3個の従軍星章を受章し、撃沈した艦艇の総トン数は19,710トンに上る。
脚注
出典
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^ a b c d e f g #Friedmanpp .285-304
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^ a b c d e f #Friedmanpp .305-311
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^ a b #SS-246, USS CROAKERp .28
^ a b #田村p .90
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^ #SS-246, USS CROAKERp .15, pp.29-30
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参考文献
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外部リンク