パドル (USS Paddle , SS-263) は、アメリカ海軍 の潜水艦 。ガトー級潜水艦 の一隻。艦名はミシシッピ川 に生息するヘラチョウザメ に因む。
艦歴
「パドル」は1942年5月1日にコネチカット州 グロトン のエレクトリック・ボート 社で起工する。1942年12月30日にフェクテラー夫人(後の海軍作戦部長 ウィリアム・フェクテラー 提督 の妻)によって進水し、艦長ロバート・H・ライス少佐(アナポリス 1927年組)の指揮下1943年3月29日にコネチカット州ニューロンドン で就役する。公試及び訓練後、1943年6月8日にニューロンドン を出航しパナマ運河 を経由して真珠湾 に7月5日到着した。真珠湾から二度の哨戒を行い、その間に駆逐艦 に対する対潜水艦戦訓練を実施し、気象観測設備が装着された。
第1、第2の哨戒 1943年7月 - 11月
7月20日、「パドル」は最初の哨戒で日本近海に向かった。本州 海域で哨戒中の8月13日朝、北緯33度45分 東経136度17分 / 北緯33.750度 東経136.283度 / 33.750; 136.283 の梶取崎(和歌山県 太地町 )沖で第8812船団を発見[ 7] [ 8] 。魚雷を4本発射し、うち2本が輸送船「日高丸」(日本郵船 、5,486トン)に命中したものの、不発魚雷だったので軽微な損傷に留まった[ 9] [ 10] [ 11] 。
「パドル」は攻撃後、護衛艦の反撃により13時間の潜航を強いられた[ 12] [ 13] 。8月19日、日本軍 の観測機に7発の爆弾を投下され、僅かに損傷するが、直ちに修理された[ 14] 。8月23日昼、北緯34度37分 東経137度53分 / 北緯34.617度 東経137.883度 / 34.617; 137.883 の浜松 南方掛塚灯台146度4海里地点で第7822船団を発見して魚雷を4本発射し、貨客船「安宅丸 」(旧イタリア 船アダ/帝国船舶 、5,248トン)[ 11] に命中させてを撃沈した[ 15] [ 16] 。「パドル」はさらに2本発射したが、こちらは命中しなかった[ 17] 。9月12日、54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
10月17日、「パドル」は2回目の哨戒でマーシャル諸島 方面に向かった。ガルヴァニック作戦 に関連してナウル島 沖に配備され、主にギルバート諸島 を攻撃する航空部隊に向けた気象情報の通報や電波誘導を実施。11月29日には、北緯11度20分 東経162度29分 / 北緯11.333度 東経162.483度 / 11.333; 162.483 のエニウェトク環礁 沖で駆逐艦 に護衛された「日本丸級タンカー」を発見し、魚雷を5本発射して2本の不確実な命中を記録した[ 18] 。12月9日、58日の行動を終えて真珠湾に帰投[ 19] 。この後、「H.O.R.エンジン搭載艦は1隻残らず、暫時エンジンを換装するように」という合衆国艦隊 司令長官兼海軍作戦部長 アーネスト・キング 大将 の命令が出ていたので、該当艦の1隻である「パドル」はメア・アイランド海軍造船所 に回航され、GM社製278A16気筒エンジンに換装した[ 20] 。また、艦長がバイロン・H・ノウェル少佐(アナポリス1935年組)に代わった。
第3、第4、第5の哨戒 1944年3月 - 9月
1944年3月19日、「パドル」は3回目の哨戒でフィリピン 南方およびモルッカ諸島 方面に向かった。4月16日未明、南緯02度25分 東経127度24分 / 南緯2.417度 東経127.400度 / -2.417; 127.400 のアンボン の北西120キロ地点でハルマヘラ島 からアンボンに向かっていた輸送船団を発見した。船団は護衛艦3隻と輸送船4隻からなり、1時53分に魚雷を計10本発射し、輸送船「第一日の丸 」(日の丸汽船、2,671トン)に魚雷を命中させて沈没にいたらしめ、3分後には陸軍輸送船「水戸丸 」(日本郵船、7,061トン)にも魚雷を3本命中させて撃沈した[ 21] [ 22] 。「パドル」はさらに戦果を拡大するため魚雷の装てんを急ぎ、明け方に「未明の攻撃で損傷したタンカー」に対して魚雷を4本発射したが命中せず、さらに攻撃しようとしたが護衛艦に阻止された[ 23] 。5月12日、54日間の行動を終えてフリーマントル に帰投した。
駆逐艦「帆風」(1921年)
6月5日、「パドル」は4回目の哨戒でセレベス海 およびダバオ湾 (英語版 ) 方面に向かった。折りしも、アメリカ軍がマリアナ諸島 攻略を進めている最中であり、それを阻止するための日本艦隊の出撃も予想された。「パドル」の担当海域も艦隊の通過が予想されたが、結局何もなかった。6月30日、北緯03度01分 東経123度16分 / 北緯3.017度 東経123.267度 / 3.017; 123.267 のセレベス海で哨戒中に爆撃を受け損傷を受けたが、すぐに修理を行って事なきを得た[ 24] 。7月6日、北緯03度24分 東経125度28分 / 北緯3.400度 東経125.467度 / 3.400; 125.467 のサンギ島西岸沖で輸送船団を発見し、雨の中で魚雷を4本発射、魚雷は駆逐艦「帆風 」に2本が命中してこれを撃沈した[ 25] [ 26] 。「パドル」は二番目の駆逐艦に対しても魚雷を2本発射し、1本が命中したと判定された[ 27] 。7月9日未明には、中型輸送船と小型護衛艦を発見し、魚雷を3本発射したが回避された[ 28] 。7月29日、54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
8月22日、「パドルは」5回目の哨戒でスールー海 に向かった。9月7日夕刻、北緯08度12分 東経122度37分 / 北緯8.200度 東経122.617度 / 8.200; 122.617 のミンダナオ島 シンダンガン岬沖で輸送船団を発見[ 29] 。タンカーに対して4本、輸送船に対して2本の魚雷を発射し、海軍徴傭船「真洋丸 (英語版 ) 」(拿捕 船、2,634トン)に魚雷を3本命中させて撃沈したが[ 30] [ 31] 、この時「真洋丸」にはアメリカ軍の捕虜 772名が乗船しており、船体分断により、後部船倉に乗っていた捕虜500人は全員が船と運命をともにした。また、日本側の機銃掃射等で前部船倉に乗っていた捕虜272名のほとんどが死亡した。別の魚雷は特設運送船(給油)「第二永洋丸 」(日本油槽船、5,061トン)に命中し、同船は沈没を防ぐため座礁した。この時、座礁した「第二永洋丸」の周囲を泳いでいた捕虜数十名が同船に救助されたが、錨庫に隠れていて、陸岸に逃れた1名を除く全員がその夜、同船上で射殺された。捕虜は「真洋丸」から脱出した84名と、船とともに運命をともにしたり、日本側の機銃掃射などで殺害された688名に大別され、前者のうち1名は岸にたどり着いたときに死亡し、他の1名はフィリピンに残った。残る82名はオーストラリア 経由で生還し、アメリカ本国で幾度か会合を開いている。「第二永洋丸」は離礁した後、9月12日に回航先のセブ で第38任務部隊 (マーク・ミッチャー 中将 )の艦載機によって撃沈された[ 注釈 1] 。9月25日、パドルは34日間の行動を終えてミオス・ウンディ島 に帰投[ 33] 。艦長がジョゼフ・P・フィッツパトリック少佐(アナポリス1938年組)に代わった。
第6、第7、第8の哨戒 1944年10月 - 1945年7月
10月3日、「パドル」は6回目の哨戒でマカッサル海峡 方面に向かった。この哨戒では主に、バリクパパン を爆撃する爆撃機搭乗員の救助任務に就いた。バリクパパン沖に向かう途中の10月11日未明、南緯01度20分 東経117度36分 / 南緯1.333度 東経117.600度 / -1.333; 117.600 の地点で、石油を輸送していた2隻の500トン級海上トラック と50トン級スクーナー を発見し、砲撃ですべて撃沈した[ 34] 。11月1日、29日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
11月25日、「パドル」は7回目の哨戒で南シナ海 、ルソン島 方面に向かった。12月7日夜、北緯03度54分 東経111度24分 / 北緯3.900度 東経111.400度 / 3.900; 111.400 の地点でシマ臨時船団を発見[ 35] 。まず護衛艦に対して魚雷を3本発射したが、命中しなかった[ 36] 。翌12月8日未明、北緯04度02分 東経111度12分 / 北緯4.033度 東経111.200度 / 4.033; 111.200 のボルネオ島 クチン 沖にいたったところで魚雷を6本発射し、付近にいた「ハンマーヘッド (USS Hammerhead, SS-364 ) 」の発射した魚雷と合わせたうちのの3本がタンカー「松栄丸 」(日東汽船、2,854トン)に命中し、松栄丸は大火災の末沈没していった[ 37] [ 注釈 2] 。「パドル」は反転して「若竹型駆逐艦 」に対して魚雷を4本発射し、「1本を命中させて目標を撃沈した」と推定された[ 39] 。直後に「第43号海防艦 」の反撃を受け、「パドル」は浮上したままその場から脱出した[ 40] 。その後、アメリカ本国に向かうよう指示された。1945年1月18日、53日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ハンターズ・ポイント海軍造船所 に回航されてオーバーホールに入った[ 41] 。
5月15日、「パドル」は8回目の哨戒で東シナ海 および黄海 に向かった。この時期の日本の海上輸送は末期状態であり、残った大方の船舶も機雷で身動きが取れない状態だった。それでも攻撃の機会には恵まれた。6月6日には北緯31度16分 東経130度10分 / 北緯31.267度 東経130.167度 / 31.267; 130.167 の地点で駆潜艇 を発見し、魚雷を3本発射したが命中しなかった[ 42] 。6月8日、北緯33度38分 東経126度22分 / 北緯33.633度 東経126.367度 / 33.633; 126.367 の地点で2隻の50トン級監視艇を発見し、浮上して20ミリ機銃の射撃で撃沈した[ 43] 。同じ日の夜には輸送船を発見し、魚雷を2本発射して爆発も確認したが、目標に変化は見られなかった[ 44] 。浮上して目標を追跡したが、折から哨戒艦艇が向かってくるのが見えた[ 45] 。北緯34度03分 東経126度33分 / 北緯34.050度 東経126.550度 / 34.050; 126.550 の地点で魚雷を2本発射し、全速力で脱出した[ 46] 。6月26日夜には北緯37度30分 東経123度43分 / 北緯37.500度 東経123.717度 / 37.500; 123.717 の地点でも50トン級監視艇を発見し、6月27日未明に浮上して5インチ砲と20ミリ機銃で撃ち沈めた[ 47] 。7月2日朝、北緯38度29分 東経124度13分 / 北緯38.483度 東経124.217度 / 38.483; 124.217 の地点で2隻の50トン級監視艇、2隻250トン級スクーナー と100トン級セイルボートを発見し、砲撃で一網打尽とした[ 48] 。最後は魚雷を1本だけ発射したが、命中しなかった[ 49] 。また、道中で見つけたいくつかの浮遊機雷を機銃を使って爆破した[ 50] 。7月18日、パドルは60日間の行動を終えてグアム アプラ港 に帰投した。この後、8月13日に9回目の哨戒(搭乗員救助任務)で日本の本州海域に向かったが、2日後に終戦を迎えた。8月17日、ミッドウェー島 に帰投した。
「パドル」は第二次世界大戦 の戦功で8個の従軍星章を受章した。第1回から第7回までの哨戒が成功として記録された。
戦後・ブラジル海軍で
「パドル」は真珠湾とパナマ運河 経由で大西洋岸に向かい、9月30日にスタテンアイランド に到着した。その後、ニューロンドンで予備役として保管され、1946年2月1日に退役した。
1956年8月31日に再就役し、相互防衛援助計画の下のブラジル海軍 に貸与するための準備に入る。「パドル」は1957年1月18日に退役、ブラジル海軍に貸与され、「リアチュエロ (S Riachuelo , S-15) 」と改名、任務に就いた。
脚注
注釈
^ この経緯から、第二永洋丸撃沈はパドルと空母機の共同戦果となっている[ 32] 。
^ この経緯から、松栄丸撃沈はパドルとハンマーヘッドの共同戦果となっている[ 38] 。
出典
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外部リンク