オーブリヒハイム (バーデン)
オーブリヒハイム (ドイツ語: Obrigheim, ドイツ語発音: [ˈoːbrɪçha‿im][2]) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ネッカー=オーデンヴァルト郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。 地理位置オーブリヒハイムは、古城街道に面したオーデンヴァルトの支脈沿い、ネッカー川西岸に位置している。ネッカー川の対岸はモースバッハのディーデスハイム地区である。ハイデルベルクまでは約50km、ハイルブロンへは約30kmの距離にある。町域は、標高138mから323mのネッカータール=オーデンヴァルト自然公園に含まれる。 自治体の構成町は中心地区であるオーブリヒハイム地区とアスバッハ地区、メーテルシュタイン地区から成る。 歴史最初の定住者新石器時代や線帯文土器時代の様々な出土品から、現在のオーブリヒハイムの町域には古くから定住者があったことが示されている。石器時代や青銅器時代の墳墓もある。オーブリヒハイムではケルト時代の骨や副葬品が発掘されている。ローマ人たちはオーブリヒハイムの入植地を維持した。それはネッカーリーメスを安全にし、ネッカー川およびその往来(橋の遺構は見つかっておらず、おそらく港があったと推測されている)を監視するためであった。ローマ時代の遺物としては、ヴィラ・ルスティカ(田舎の別荘)の基礎や、町の中心部から発掘されたメルクリウスの石が保存されている。ローマ人は、アレマン人によって3世紀にライン右岸のドイツ南西部全域から逐われ、6世紀にはここにフランク人が侵出した。 最初の記録南西ドイツ地方は8世紀にキリスト教化された。新しく創設された司教区や修道院に多くの所領が移譲された。773年のロルシュ文書に Ubarachheim がロルシュ修道院に贈与された記録が遺されている。また、オーブリヒハイムは976年に皇帝オットー2世によってモースバッハ修道院のためにヴォルムス司教に貸与した記録が遺されている。メーテルシュタインの最初の記録は1000年頃、アスバッハは1100年頃である。 中世970年頃、この村のネッカータール高台の斜面にそそり立つ岩山の上にホーヒンロート城が建設され、976年からヴォルムス司教区のレーエンとしてモースバッハ修道院がこれを利用した。もう一つの城、メトレンブルク(またはアルテ・ブルク(旧城)ともいう)は、現在のプロテスタント教会の位置に11世紀に建設された。1290年頃にホーヒンロート城は大規模な拡張がなされ、この城によってオーブリヒハイムの統治がなされた。後にヘルムシュタット家がそこに入った。1401年にルプレヒト・フォン・デア・プファルツがこれを獲得し、ノイブルク(新城)と名付けた。アスバッハ1380年からすでにプファルツ領であり、メーテルシュタインも1400年からプファルツ領となった。 14世紀には、ネッカー川を遡ったカールスベルクに第三の城であるラントゼーア城が建設された。この城もプファルツ選帝侯の所有となり、小さな断片が遺るのみである。15世紀にはロッサウ家がノイブルクのレーエン主となり、この城砦を城館に改築した。この城は、現在でも、遠くからでも目に入るオーブリヒハイムを象徴する建築物である。オーブリヒハイムとメーレンシュタインの教会は、1371年からその存在が知られている。 三十年戦争三十年戦争中、1635年にオーブリヒハイムは事実上抹殺された。わずかに残されたのは、主にスイス人移民が住む入植地だけであった。この戦争の間の多くの年月、ノイブルクのレーエン主はバイエルン選帝侯領の宰相ゲオルク・フリードリヒ・フォン・イーゼルバッハであった。いずれにせよ、戦争と伝染病で手ひどく痛めつけられたこの町は、三十年戦争以後の200年以上にわたって貧困と塗炭の苦しみに苛まれた。 啓蒙運動時代1786年、オーブリヒハイムには3つの教会、1つの学校、118県の家屋があった。1803年にこの町はライニンゲン侯領になり、1806年には新たに成立したバーデン大公国に編入された。住民の苦しみは、主にアメリカへの移住を引き起こした。19世紀後期の鉄道建設は、わずかな高揚しかもたらさなかった。1845年にライニンゲン=ビリヒハイム伯カールがノイブルク城を獲得し、1869年にはチェット家がこれを入手した。 ナチス時代と第二次世界大戦 1933年 - 1945年ネッカーエルツには1944年から1945年までナチスのナッツヴァイラー強制収容所の外郭施設があった。この施設の収容者たちはオーブリヒハイム石膏採掘所での採掘作業に従事した。彼らは初め、ネッカー川対岸のモースバッハ=ネッカーエルツの学校に収容された。収容施設群は瞬くうちに拡大した。オーブリヒハイムの地下に造られた爆撃機のモーター工場ではほぼ1万人が様々な種類の作業を行った。1945年に900人の収容者が解放された。鉄道の連絡と軍需工場の存在は、戦争期間中たびたび空爆を受けた理由であった。 現在戦争後、東部ドイツからの放逐者たちはノイブルク城内に収容された。1961年にこの町は、ドイツ初の商用原子力発電所の建設地に選ばれた。資本金1億ドイツマルクのオーブリヒハイム原子力発電所GmbH (KWO) の設立がこの地域に及ぼした経済上のインパクトについては、議論の余地がある。この原子力発電所は2005年初頭から操業を停止している。 宗教宗教改革以降、オーブリヒハイムではプロテスタントが優勢である。3つのプロテスタント教会組織の他に、ローマ・カトリックの教会組織もこの町にはある。 町村合併
行政議会オーブリヒハイム議会は、定員18議席で、5年ごとに選挙が行われる。 姉妹都市文化と見所ゲオパルク・プロジェクトの枠組みで
博物館
建築
スポーツSV ゲルマニア・オーブリヒハイムのウェイトリフティング部は、ブンデスリーガ1部で戦っている。2003年には、ドイツ男子マイスター戦で優勝した。2005年と2007年にはそれぞれ準優勝を得た。 経済と社会資本オーブリヒハイム東部のネッカー沿いの石膏採掘場では、年間30万tの石膏が積み出されている。 テクノロジーパーク・ネッカー=オーデンヴァルト (TECH·N·O)は、オーブリヒハイムの交通の便がよい地の利を活かして新しい企業立地を提供している。 原子力発電所オーブリヒハイム原子力発電所 (KWO)の反応炉(加圧水型原子炉、357MW)は、2005年5月11日に操業を停止した。使用しなくなった建物を解体するのには、その後14年を必要とする。この原子炉は、1968年にドイツで初めて商用に利用された炉であった。 交通オーブリヒハイムから2本のコンクリート橋がネッカー川を渡ってモースバッハのディーデルスハイム地区とを結んでいる。連邦道B292号線がモースバッハ・ジャンクションからオーブリヒハイムを経由してジンスハイム方面に向かう。 鉄道メッケスハイム - ネッカーエルツ線は、初めはオーブリヒハイムへ、その後、1945年に架けられた橋を渡ってネッカーエルツでネッカータール鉄道に接続したが、この区間(アグラースハウゼン - ネッカーエルツ間)は廃止されている。 脚注
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