ハスマースハイム
ハスマースハイム (ドイツ語: Haßmersheim) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ネッカー=オーデンヴァルト郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。 地理位置ハスマースハイムは、ネッカー川の渓谷沿い、標高140mから297mに位置する。ネッカー=オーデンヴァルト郡の外縁部にあり、南はハイルブロン郡と境を接する。 自治体の構成ハスマースハイムは、ハスマースハイム地区自身の他、ホッホハウゼン地区、ネッカーミュールバッハ地区からなる。 歴史ハスマースハイムは、774年6月7日にHasmarsheimとしてロルシュ文書の文書番号2431に初めて記載されている。文書番号2432および2433にも別の寄贈証明書が遺されている。792年12月31日付の文書番号2447には、Asmaresheimの名前が使われている。現在のホッホハウゼン地区、ネッカーミュールバッハ地区は、それぞれ788年、856年に最初の記録が遺されている。 ハスマースハイムは、古くはフランケンのガウ・ヴィンガルタイバ属した。このガウ(行政管理区分)は、976年にヴォルムス聖堂参事会領となった。ハスマースハイムは、ネッカーガウにも属していた時代もある。この村は、1011年に皇帝コンラート2世によって聖堂参事会に寄贈された。 この頃には、ハスマースハイムや、ネッカー川を隔ててこの村と向かい合うホルンベルク城のレーエン主としてラウフェン伯が文献上に登場する。この伯は後に、おそらくはガウの伯となり、この地域のネッカー川の水運を管理した。また、ハスマースハイムあるいはその一部を、たびたびホルンベルク城もしくはその一部とともに譲渡してもいる。1325年のヴァインスベルク家の相続に際し、この村はコンラート5世・フォン・ヴァインスベルクとエンゲルハルト=コンラート・フォン・ヴァインスベルクに分割された。1330年にはネッカー川の渡しに関して初めて言及されている。1366年4月20日付の皇帝カール4世の文書中に、シュパイアー司教本部がこの地の権利と所領を新たにした記述がある。1411年にドイツ騎士団がこの村を獲得し、1416年には宮中伯オットーがこの村の自分の所領分を売却している。1457年にこの村は、ハンス・フォン・ゲンミンゲンに質入れされるが、彼は1449年には既にグッテンベルク城を有していた。 1474年、ルッツ・ショット・フォン・ショッテンシュタインは、この村をプファルツ選帝侯に奪われた。1504年に息子のコンツ・ショット・フォン・ショッテンシュタインは、家門の所領を奪い返した。その後、この奪い取った所領に関する訴訟にも勝利した。1517年、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは、ホルンベルク城と、ハスマースハイム、シュタインバッハおよびネッカーツィンメルンをレーエンとして獲得した。1554年には町長がいたことが分かっている。1555年、プファルツ選帝侯は、 プロテスタントに改宗した。それに伴いハスマースハイムにも、宗教改革がもたらされた。この村はこの後18世紀に到るまで、プファルツ選帝侯が宗旨を変えるたびに、何度も改宗を繰り返すこととなった。 三十年戦争では、この村は何度も荒らされた。特に1622年夏のヴィンプフェンの戦い後には激しい略奪が行われた。1624年ハスマースハイムは、他のネッカー渓谷の町とともに、ハイデルベルクを降伏させたティリー伯軍によって略奪された。1626年と1635年にはペストが猛威を振るった。この村に再び人が定住するようになったのは1660年以降にスイスやシュタイアーマルク地方からの人々が入植してからであった。この結果、この村には様々な宗派(ローマ・カトリック、ルター派、改革派)が入り交じったが、1711年にルター派の教会組織が、1729年には改革派の教会が築かれた。一方、これより以前の1699年にはネッカー川沿いにローマ・カトリックの教会が建てられてもいる。 1792年から1799年のフランス革命戦争の時代には、フランス軍によって略奪が行われた。1813年にはコサック人が数週間にわたりこの町を占領した。1817年には飢饉におそわれた。1824年10月30日、19世紀最悪の洪水災害がこの町を襲い、2件の家屋が流された。1729年に築かれたプロテスタント教会も洪水により甚大な被害を受けた。 この頃、ハスマースハイムは南ドイツ最大の渡し場とみなされていた。1809年にはすでにツンフトが発足していた。1812年には250人の人口に対して、51艘の渡し船があった。1860年には73艘が稼働していた。 1917年から1918年、ハスマースハイムに硫黄精錬工場が建設された。ここでは、ネッカーツィンメルン硫黄採掘場で採掘された硫酸カルシウム鉱石を、軍事上重要な硫黄に精錬していた。この工場は、1919年以降、ヴェルサイユ条約に基づいて大部分が解体された。ハスマースハイムとネッカーツィンメルンを結ぶ橋は残されたが、第二次世界大戦でこれも破壊された。1930年、ハスマースハイムは約1730人の人口があった。1935年にネッカー川は、マンハイムからハイルブロンまでが運河化され、新たなネッカー川水運が幕を開けた。 1972年1月1日にホッホハウゼンが合併し、1月30日にはネッカーミュールバッハが住民投票により合併を決定した。1975年にホッホハウゼンとネッカーミュールバッハを含むハスマースハイムは、ケルバーツハウゼンを含むヒュッフェンハルトとともにハスマースハイム=ヒュッフェンハルト行政共同体を結成し、本部がハスマースハイムに置かれた。1978年にはハスマースハイムの人口は約4150人になった。1988年、渡し船存続の住民決議が採択された。 宗教プファルツ選帝侯の改宗に伴い、ハスマースハイムには1554年に改革派の信仰がもたらされた。1555年からはルター派、後にカルヴァン主義改革派に転じ、1585年に改革派に、さらに1648年にカルヴァン主義改革派に戻された。1698年からは再び村にカトリック信者が住むようになり、1711年にはプファルツ選帝侯がカトリックに改宗した。この村は2つの宗派で揺れ動き、村の教会は、時に非宗派別教会となった。両宗派の教会はその後、新設された。ハスマースハイムは現在プロテスタントが優勢な町であるが、ローマ・カトリック教会や新使徒派教会の組織もある。 町村合併
行政首長第二次世界大戦後の首長を列記する。
議会ハスマースハイムの議会は17議席からなる。 友好都市
経済と社会資本交通ハスマースハイム駅は、町からネッカー川を隔てた向かい側にあり、電動鎖牽引式の渡し船で行くことができる。この駅からはネッカータール鉄道経由で、ハイルブロン=シュトゥットガルト方面およびネッカーエルツ方面にアクセスできる。 ネッカー川の対岸には連邦道B27号線も走っている。最寄りのアウトバーンのインターチェンジは、A6号線(マンハイム – シュトゥットガルト)のバート・ラッペナウ・インターチェンジで約15kmの距離にある。 地元企業
文化と見所ハスマースハイムは多くの見所を持つ古城街道沿いに位置している。 建築
人物出身者その他のゆかりの人物ドイツ連邦共和国初代大統領のテオドール・ホイスの家族は、ハスマースハイム出身の家柄である。 引用
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