ウォーリー・ジョイナー
ウォレス・キース・ジョイナー(Wallace Keith Joyner,1962年6月16日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身の元プロ野球選手(一塁手)。ニックネームは「Wonder Wally」,「Wally World」。 経歴現役時代1983年のMLBドラフトでカリフォルニア・エンゼルスから3巡目(全体67位)に指名を受け、自身の誕生日である6月16日に契約[1]。 1984年はAA級ウォーターベリーで打率.317・12本塁打・出塁率.398を記録[2]。プエルトリコのウィンターリーグにおける1985-86シーズンで、54試合に出場して打率.356・14本塁打・48打点の好成績を挙げ、三冠を獲得。 1986年は開幕メジャー入りを果たし、4月8日のシアトル・マリナーズとの開幕戦に「3番・一塁」で先発出場しデビュー[3]。翌4月9日の同カードでマーク・ラングストンからメジャー初本塁打を放つ[4]など強打を発揮してレギュラーに定着。ルックスの良さも手伝ってたちまちファンの人気者になった。24歳の誕生日だった6月16日のテキサス・レンジャーズ戦では、9回1死まで無安打に抑え込まれていたチャーリー・ハフから安打を放ってノーヒッターを阻止し、その後のサヨナラ勝利[5]に貢献するなど前半戦で打率.313・20本塁打・72打点[6]と抜群の成績を挙げ、ルーキーながらファン投票でオールスターゲームに選出された[7]。前夜に行われたホームランダービーではニューヨーク・メッツのダリル・ストロベリーと同点優勝。8月20日のデトロイト・タイガース戦では、9回2死からウォルト・テレルのノーヒッターを阻止する二塁打を放った[8]。後半戦は打率.257・2本塁打[6]と不調に陥ったが、シーズン通算で打率.290・22本塁打・100打点を記録し、チームの4年ぶりの西地区優勝に貢献。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.455[9]と活躍するが、第4戦以降は欠場。チームは3勝1敗と王手をかけた後の第5戦で悪夢の逆転負けを喫し、第6・7戦も連敗して3勝4敗で敗退、球団創設以来初のリーグ優勝を逃した。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では、33本塁打・117打点を記録したホセ・カンセコとの一騎打ちとなり、12ポイント差で惜しくも受賞を逃した[10]。MVPの投票は8位[11]。オフの日米野球でMLB選抜の一員としてカンセコらと共に来日した。 1987年は5月20日のトロント・ブルージェイズ戦でトム・ヘンキーからサヨナラ本塁打、10月3日のクリーブランド・インディアンス戦で1試合3本塁打を放つ[4]など打率.285・いずれもキャリアハイの34本塁打・117打点・100得点・長打率.528を記録し、MVPの投票で13位に入った[12]。1988年はキャリアハイの176安打を放ったが、本塁打は13に減少した。1991年は自身初の打率3割となる.301・21本塁打・96打点を記録。10月28日にフリーエージェントとなり、12月9日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約[1]。 ストライキでシーズンが打ち切られた1994年は打率.311、1995年は打率.310・キャリアハイの出塁率.394を記録。12月21日にビップ・ロバーツとマイナー1選手との交換トレードで、マイナー1選手と共にサンディエゴ・パドレスへ移籍[1]。 1996年は開幕から5試合連続マルチヒットを記録するなど、4月は4割を超える打率をマーク[13]。その後は失速したが、チームは西地区優勝。自身10年ぶりのポストシーズンとなったセントルイス・カージナルスとのディビジョンシリーズでは打率.111[9]に終わり、チームも3連敗で敗退した。1997年はキャリアハイの打率.327、1998年は7月28日のメッツ戦で野茂英雄から本塁打を放った[4]。チームは2年ぶりの地区優勝を果たし、ポストシーズンも勝ち上がって14年ぶりのリーグ優勝。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは無安打[9]に終わり、チームも4連敗で敗退した。1999年は打率.248・5本塁打と不本意な成績で、12月22日にブレット・ブーン、ライアン・クレスコ他1選手との交換トレードで、レジー・サンダース、キルビーオ・ベラスと共に故郷のアトランタ・ブレーブスへ移籍[1]。 2000年は前半戦で打率.198・1本塁打と不振だったものの、後半戦で打率.350[14]と復調し、チームも東地区優勝を果たした。カージナルスとのディビジョンシリーズでは3試合全て代打での出場[15]で、チームは3連敗で敗退した。10月30日にフリーエージェントとなり、2001年1月25日に古巣エンゼルスと契約[1]。同年は故障で離脱したモー・ボーンに代わって主に一塁で出場したが、打率.243・3本塁打と不振で誕生日の6月16日に解雇[1]され、そのまま現役を引退した。 引退後2005年11月、現役時代の1998年に当時チームメイトだったケン・カミニティと共にステロイド剤を入手し、短期間ではあるが使用したことを告白した[16]。2年後の2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書において、禁止薬物を使用したとして名前が記載された。 2007年7月31日にパドレスの打撃コーチに就任し[17]、2008年まで務めた。 2013年はフィラデルフィア・フィリーズの打撃コーチ補佐を務め、8月のチャーリー・マニエル監督解任及びライン・サンドバーグ監督就任後は一塁コーチに転任となった。 2014年から2016年まではタイガースの打撃コーチを務めた。 エピソード通算守備率.994[18]と巧みな守備が持ち味だったが、同時期に一塁手だったニューヨーク・ヤンキースのドン・マッティングリーに阻まれ、ゴールドグラブ賞には縁がなかった。 ルーキーイヤーの1986年、敵地ヤンキー・スタジアムでのヤンキース戦で、試合中に観客席から一塁の守備位置に就いていたジョイナー目がけてナイフが投げ込まれる事件が起こった。幸い左腕に軽傷を負っただけで済んだが[19]、犯人は群衆に紛れて捕まらなかった。 その「報復」とばかりに、エンゼルスの本拠地アナハイム・スタジアムでのヤンキース戦では、ライトスタンドからヤンキースの右翼手デーブ・ウィンフィールドの守備位置付近にゴミが投げ込まれ、その中にはゴム製のナイフのおもちゃが含まれていた。 女性ファンからも絶大な人気を得たが、学生結婚しておりメジャーデビュー時には既に二児の父であった。 前述の通りドラフト指名後のエンゼルスとの契約、ノーヒッターの阻止、エンゼルスから解雇された日はいずれも誕生日である6月16日と、浅からぬ縁があった。 詳細情報年度別打撃成績
獲得タイトル・表彰・記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク |