鷗外・ナウマン論争![]() ![]() 鷗外・ナウマン論争(おうがい・ナウマンろんそう)とは、森鷗外とハインリッヒ・エドムント・ナウマンの間で起きた論争。 1886年(明治19年)、ドイツ帝国のドレスデンにおいて、ナウマンは日本及び日本人に関して講演した。そして同日の晩餐会でもスピーチをすると、その内容に対し同席していた鷗外がその場で反論した。その後、ミュンヘンの新聞において日本と日本人に関するナウマンの論文及び講演抄録が掲載されると、鷗外は反論を発表し、両者が紙面上で意見を戦わせた。 背景森鷗外(森林太郎)は東京大学 (第1次)を卒業後、大日本帝国陸軍の軍医部に入った。そして陸軍からドイツ留学の機会を得ることができ、1884年(明治17年)にドイツへと渡った。ドイツではまず、ライプツィヒ大学で1年間衛生学と栄養学を学び、その後ドレスデンで軍医のための講習を受け、軍医監のウィルヘルム・ロートらに学んだ[1]。 ハインリッヒ・エドムント・ナウマンは1875年(明治8年)にお雇い外国人として来日し[2]、東京開成学校教授、東京大学 (第1次) 教授を経て[3]、地質調査所の立ち上げにかかわった[4]。日本滞在中は地質調査のため日本各地を回った。後任となる原田豊吉が留学先のドイツから帰国すると職を解かれ、1885年にドイツに帰国し、ミュンヘン大学の無給講師となった[5][6]。 ドレスデンでの講演2人が論争するきっかけとなったのは、1886年(明治19年)3月6日にドレスデン地学協会で開かれたナウマンの講演であった。ドイツ帰国後のナウマンは各地で講演に招かれ、1886年2月にはウィーンで、4月にはベルリンで、日本に関して講演している。ドレスデンでの講演もそのうちの1つであり、タイトルは「日本列島の地と民」であった[7]。 この講演を聞いていた1人が鷗外であった。鷗外はドレスデンでの講習を終え、次の目的地であるミュンヘンに移動する予定となっていた。しかしドレスデン地学協会から誘いを受けたので、これに出席してからドレスデンを離れることにしていた[8]。 この日の様子は、鷗外が留学時代につけていた日記をまとめた『独逸日記』で描写している。それによると、このときの講演内容は後述する『アルゲマイネ・ツァイトゥング (Allgemeine Zeitung)』紙に掲載されたものと似たものと考えられる。また、ナウマンは講演の際に「何故にか頗る不平の色」があったという。鷗外はナウマンの話す日本論に不満であったが、講演の場では反論する機会は無かった。しかし講演が終わった後、晩餐会でのスピーチでナウマンが「私は長く東洋にいたが、仏教には染まらなかった。なぜなら、仏教では女子には心が無いと教えているからだ」といったことを話したので、立ち上がり、「仏教では女の人も多く覚者となっている。心が無いということは無い」という趣旨で反論した。そして、「請うらくは人々よ、余とともに杯を挙げて婦人の美しき心の為に傾けられよ」と述べた[9][10]。 講演後、ウィルヘルム・ロートは鷗外に向かって、「Immer verschmitzt! (いつものようにやったな)」と言った[10][11]。また翌日、鷗外を駅まで見送りに来た志賀泰山と松本脩(松本収[12])に対し、フィンランドの医師ワールベルヒ(C. F. von Wahlberg)は、「諸君は森子に謝せざるべからず。森子は談笑の間能く故国の為に冤を雪ぎ讐を報じたり」と述べた[13][14][15]。 3月14日、鷗外はこの出来事を日本にいる弟の三木竹二(森篤次郎)に手紙で知らせ、6月に返信が届いた[16]。その返信によれば、篤次郎はナウマンの話を読んだときは「怒気ノ腔ニ満チテ身ノ置ク所ヲ知ズ[16]」というほどの怒りを感じた。しかし鷗外の反論は「実ニ一大快事[17]」で、この反論箇所を読んだときの心情を「怒気氷ノ如クニ解ケ、感喜ノ余、数行ノ涙止ムルヲ得ザリシ[17]」とつづった。 紙面での論争ナウマンの論文ナウマンはミュンヘンの有力新聞である『アルゲマイネ・ツァイトゥング」の付録となる『Beilage zur Allgemeinen Zeitung』1886年6月26日号および6月29日号に、論文「日本列島の地と民(Land und Volk der japanischen Inselkette)」を発表した[6][18]。この論文では、まず、日本の風土や歴史について記載され[19]、次に、東京から富士山に行く際に見える景色が紹介されている[20]。続いて、ナウマン自身の実体験をベースにした四国の紹介があり、吉野川などについて述べられている[21]。さらに日本人の風俗習慣などについての説明がある[22]。 また、同じ『Beilage zur Allgemeinen Zeitung』の1886年6月30日号にもナウマンの日本に関する記事が掲載された[18]。ただしこれは、ナウマンがミュンヘンで講演した内容を記者がまとめた抄録記事で、ナウマン自身が書いたものではない。内容は、先の論文と共通したものが多いが、抒情的な面がある先の論文と比べ、より即物的な書き方となっている[23]。 この論文または抄録記事に記載された内容のうち、のちに鷗外との間で論争になったのは、主に以下の箇所である。なお、カッコ内の符号a - hとタイトルはナウマンの原文にはなく、符号は便宜上つけたもの、タイトルはその後の鷗外の反論で用いられたものである。
鷗外の反論鷗外の留学時代の日記である『独逸日記』はつけ忘れが多く、ナウマンの論文を読んだ日の感想は記されていない[31]。 ナウマン論文の発表2か月後となる9月14日、鷗外は反論の執筆に取りかかった。そして論文作成後、ドイツ人の友人に添削を受けてから、師であるマックス・フォン・ペッテンコーファーの紹介を得て、12月17日に『アルゲマイネ・ツァイトゥング』編集局に持参した。原稿を確認した編集局長は疑いの目で鷗外を見て、君が自分でこれを書いたのかと尋ねたという[32]。その場では掲載の可否について返事は得られなかったが、翌日には掲載が決まり、鷗外のもとに印刷された原稿が届けられた[32]。そして12月29日の「Beilage zur Allgemeinen Zeitung」(第360号)に、「日本の実情(Die Wahrheit über Nipon)」と題された鷗外の論文が掲載された[18][32]。 論文では、ナウマンの記述のうちa - hの8つを取り上げ、下記のように反論している。
発表後、鷗外は論文の載った新聞を日本に送った。そして弟の篤次郎らによって論文は周囲に広まった。呉秀三は大学の休み時間に論文を音読して聞かせた[41][42]。さらに1887年(明治20年)、『東京日日新聞』の4月6日、7日、9日号に3回に分けて、小池正直の手により意訳が掲載された。ただしこの記事は当時の読者の注意を引かなかったと考えられている[43]。 ナウマンの反論鷗外の論文を受けて、ナウマンは「森林太郎の『日本の実情』(Rintaro Mori's "Die Wahrheit über Nipon")」と題する論文を書いた。これは1887年1月10日及び11日の『アルゲマイネ・ツァイトゥング』10号及び11号に掲載された[44]。 ナウマンはまず、鷗外が批判しているナウマンの講演抄録はナウマン自身の筆によるものではなく不正確だということを指摘した。そして、自分の論文や講演には日本人を否定的に扱ったものではないということを述べた[45]。それにもかかわらず鷗外がこの論文に怒ったのは、最後の蒸気船のエピソードが原因だろうと推測した[46]。 鷗外が批判した箇所に対しては、以下のように答えている。
鷗外の再反論鷗外はナウマンの論文を読み、1月11日の日記で「尤も笑ふ可きは日本顚覆の一段を筆記者の誤となして抹却し去らんと欲する一事なり。何ぞ其れ怯なるや」と記している。そして続けて、反論を書いて師匠に見せたと記している[55]。しかし論文を見せるまでの期間が短すぎるので、この箇所は1月11日当日に書かれたものではないだろうと考えられている[56][57]。 鷗外の再反論は「日本の実情・再論(Noch einmal "die Wahrheit über Nipon")」と題し、2月1日に掲載された。この論文では、当初のナウマンの講演抄録に記されていた複数の点(例えば、アイヌは捕虜のような境遇であること、奥地では裸で歩いていること、伝染病に関すること、日本絵画が衰退の危機に瀕していること)は、次のナウマンの論文で訂正が入ったので、大部分の点で私と一致したと述べた[58]。そのため、論争は終結したと宣言した[58]。 しかし、いくつかの点で意見がなお食い違っているとして、以下の2点について主張を述べている[59]。
この鷗外の論文を読んだナウマンは、その日の夕方にナウマン宅を訪れた弟子の横山又次郎に対し、不機嫌そうに「森が復書いたな」と言ったという[61]。ナウマンによる反論は書かれることなく、ここで論証は終結した[61]。 論争後1911年(明治44年)、陸軍省医務局からドイツ語の論文集『Japan und seine Gesundheitspflege』が発行され、ここには、当時医務局長だった鷗外のドイツ語論文のほとんどが収録された。ナウマンに対する論文も収録されたが、鷗外の手により修正が加えられている。例えば題名の「Nipon」は「Japan」と書き換えられ、ナウマンの名前はすべて頭文字の「N」に書き換えられている[62]。この論文集は一般に知られることはなかった[63]。 1928年(昭和3年)、ナウマンの弟子で論争当時ドイツにいた横山又次郎は、『文藝春秋』1928年4月号に「森鷗外ドクトル・ナウマンを凹ます」という記事を書き、ドレスデンでの講演や、その後の紙面での論争について記述した[64][65]。論争から40年以上が経過しているこの時期に横山がこの記事を書いた理由は定かでないが、矢島道子は、論争が一般に知られていないので記録のために書き残したのだろうと推測している[66]。 1933年(昭和8年)『鷗外全集』(鷗外全集刊行会)の中の『鷗外拾遺』で鷗外の論文が収録された。さらに1937年(昭和12年)には『鷗外全集』(岩波書店)に『独逸日記』が収録された。論争が一般に知られるようになったのは岩波書店の全集刊行以降であると考えられている[67]。ただし全集に収録された論文は、『Japan und seine Gesundheitspflege』掲載のもので、新聞に掲載された原文を参照することはできなかった[68]。 小堀桂一郎は子安美知子の協力のもとミュンヘンのバイエルン図書館からオリジナルの新聞記事を見つけ出し、1967年(昭和42年)に原文を雑誌『比較文学研究』13号、1968年(昭和43年)に日本語訳を雑誌『Neue Stimme』8号に掲載した[68]。そして1969年(昭和44年)、鷗外・ナウマンの論文和訳に自らの研究を加え、著書『若き日の森鷗外』として発表した[69]。この小堀の著書によってはじめて、論争の全貌が日本で広く知られるようになった[70]。 以降、小堀の資料を参考に複数の研究論文が出されるようになった。また、藤元直樹は2010年(平成22年)、東京大学総合図書館所蔵の資料から、論文が掲載された新聞が『アルゲマイネ・ツァイトゥング(Allgemeinen Zeitung)』本紙ではなく、付録の『Beilage zur Allgemeinen Zeitung』であることなどを明らかにした[71]。 評論ナウマンが日本を貶めているかのように思われる講演および論文を発表した背景として、日本に対する恨みがあったという説がある。鷗外も、ドレスデンでのナウマンは「不平の色」があったと述べている[72]。これには、ナウマンは日本で解雇され、志半ばでドイツに帰らなければならなかったという、自身の待遇が関係していると考えられている[16][73]。また、元々ナウマンは血気盛んで、弟子に対して厳しく、不遜なところもあったので、このような性格が講演での態度に影響しているとも考えられている[8][74]。これに対し、ナウマンは日本での送別会で四国で覚えたという踊りを自ら楽し気に披露したり、ドイツ帰国後も地質調査所の佐川栄次郎と会談したりしていたことから、日本への恨みはなかったという反論もある[75][76]。 ドレスデンでの鷗外の反論は、鷗外自身によれば、皆が称賛して大成功に終わったという[8]。しかし山崎國紀は、口頭での反論であったので学問的な反論にはなり得なかったのではないかと述べている[77]。 ナウマンの論文全般について、小堀桂一郎は、修飾が多く、科学者らしい明晰な文体ではなく、格調高い文章とは言えないと述べている。一方で内容については、日本の土地及び日本人をよく観察していると評しており、特に、富士登山に関する箇所や、土佐の民俗の話は興味深いと述べている[78]。山崎國紀も、ナウマンの四国に関する内容は「まことに精細かつ人間的で興味が尽きない」と評している[79]。一方で山崎は、講演の抄録として掲載された内容は、内容は論文と同じ方向性にあるが、書きとった記者により言い方が拡大されている部分があることを指摘している[79]。鷗外が論文で批判したのは、論文よりもこの講演抄録で記述された箇所が主となっていた[79]。 具体的な論争内容に関して、小堀は、論点a - hについて、個々に見解を述べている。その中で、論争の最大の焦点は(g:国際貿易への関与)と、(h:日本の将来)であるとした。そして、日本の近代化が外発的か内発的かという論争については、論争後の1911年(明治44年)に発表された夏目漱石の講演『現代日本の開化』を引用し、ナウマンは漱石が後に考えるような日本の外発性の問題を、単純な観察ではあるが言及していたと指摘した。この主張に対し鷗外が反発した理由として、小堀は、ナウマンの白人優越的な考えが原因だとした。しかし鷗外はそのことに触れず、日本は明治以前から外国の知識を取り入れていたと反論したのだが、ここで日本固有の文化について述べても議論はかみ合わないだろうから鷗外の対応は正しく、杉田玄白などに触れても良かったと述べている[80]。(h:日本の将来)に関しては、日本が西洋文明をそのまま取り入れているというナウマンの指摘に対し鷗外は反論しているが、ナウマンの述べているところを公平に見ると、鷗外が日本に抱いていた警告と一致するところがあるとして、「この点にこそ、この論争事件の最大の生産的意義があった」と述べている[81]。 山崎國紀は、奥地では裸で歩いているということや、お歯黒に関する論争の中で、ナウマンが日本各地を調査した経験に基づいて日本の実態を述べているのに対し、鷗外は机上論的であると述べ、当時の鷗外の稚さを指摘している[82]。また、論争当時の鷗外は、芸術に関する論争で見られるように西洋の文明を積極的に導入しようとする立場であったが、後年になると保守主義者の立場に変化していったことを指摘している。そして、この変化の原因の1つがナウマンとの論争にあったと推測し、鷗外はナウマンの主張に感情的には反発しつつも、結果的に影響を受けざるを得なかったのではないかと述べている[83]。 加藤周一は、ナウマン論文の論点を、日本社会の後進性を批判する点、無差別の西洋化が日本を弱体化するという点、日本人が過去の自国を軽視しているという点の3点に分類した。そして、当時の鷗外にとっては第1の点に反論することは容易であったが、第2・第3の点に答えるのは難しく、日本の伝統文化を世界史の中で見直す必要があった。鷗外はそのことに気づいたので、その後は、西洋の技術を受け入れつつ日本の伝統も尊ぶという態度をとるようになったのではないかと述べている。さらに、鷗外が1914年(大正3年)に発表した小説『堺事件』は、「ナウマンへの晩い回答として書いたのかもしれない」と推測している[84]。 横山又次郎は、鷗外の再反論に対してナウマンは反論しなかったので、「筆戦の常法に依ると、鷗外が勝利を得たことになる」と述べた[85]。竹盛天雄は、横山の言うように、最後に筆を執った方が勝ちという印象は否めないが、真の勝利者は鷗外とは答えにくいと述べている。その理由として、ナウマンは、日本の近代化が模倣であるという事情に多くの日本人は無自覚であるということを批判しているが、鷗外はそれに対して十分に反論できていないことを挙げている。そして鷗外もそれには気づいていて、そのため、今後この指摘に対してどのように応答すべきかを考える責任が生じたのだと考えている[86]。 矢島道子は、ナウマンは論文で鷗外を罵ったり、日本への不満を述べたりしている箇所は無いことなどを指摘し、ナウマン自身は日本に対する不平はないと考えた。一方当時の鷗外は日本がヨーロッパに比べ遅れていることで嘲笑されていると感じることがあったと推測し、新興国日本の立場として、ヨーロッパに負けまいとする感情があったのだろうと述べている[87]。 藤元直樹は、ナウマンの最初の論文掲載から鷗外が反論を書き始めるまで2か月以上経過していることに注目した。この時間差について小堀は、論敵や第三者を承服させるような立派なドイツ語で書かねばならなかったからだと述べているが、藤元は、それは起草までに時間を要した理由にならないとして、日本からの反応が理由だと考えた。すなわち、ナウマンの論文が日本に届き、弟の篤次郎がその内容に激昂して鷗外に反論を要請し、その手紙が鷗外の手に渡ってから反論を書き始めたと考えれば自然な展開となると考えた。そして、鷗外がナウマンに反論したのは、家族という観客がいたことが大きな要因だと述べた[88]。 鷗外が論文の中でヨーロッパ文明の特色として「自由と美の認識」と述べた箇所は、鷗外のヨーロッパの文化に対する考えを一言で述べた言葉として取り上げられることがある[89]。木下杢太郎は、早い時期にこの箇所に注目している。そして、この記述はヨーロッパ文明に対する最大の賛辞であり、そしてこの考えは鷗外の生涯を通じて変わらなかったのではないかと述べている[90]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目
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