1876年(明治9年)に帰国し、マールブルク大学地理学教授に就任。1880年には国立科学アカデミー・レオポルディーナの会員となり、1883年にはフェルディナント・フォン・リヒトホーフェンの後継としてボン大学地理学教授に就任。1981年、1886年に『Japan nach Reisen und Studien im Auftrage der Königlich Preussischen Regierung(プロイセン王国による日本への派遣)』と題した報告書2巻刊行、本書はジャポニスムブームで注目されていた独特で高度な日本の工芸技術を詳述したものとして好評を博し、英語版が出たほか、1905年にはドイツ語版が再び刊行された。1888年にはイギリスの王立地理学会の会員にも推薦され、1893年のシカゴ万博、1900年のパリ万博では審査官を務めた。近衛篤麿、新渡戸稲造ら訪独した日本人とも多く交流し、西園寺八郎(西園寺公望の娘婿)はライン家に寄宿した[1]。1910年に引退し、ボンで没した。
著作
『日本』第1部 自然誌(1881年発行)・第2部 産業史(1886年発行)
『みかどの国の自然と国民』(1881年発行)
参考資料
『ライン祭記念誌復刻版』平成4年発行 ライン博士顕彰会(白峰村役場内)
『ライン祭』1982年から 発行 ライン博士顕彰会 問い合わせライン博士顕彰会
著書
Japan nach Reisen und Studien im Auftrage der Königlich Preussischen Regierung. 2 Bände. Leipzig: Engelmann 1881/86. 2. Auflage des 1. Bandes Leipzig: Engelmann 1905.(ドイツ語)
^Ursula von den Driesch: Rein, Johannes Justus. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 21, Duncker & Humblot, Berlin 2003, ISBN 3-428-11202-4, S. 341 f.