鳴子峡
鳴子峡(なるこきょう)は、宮城県大崎市鳴子温泉にある峡谷[1]。栗駒国定公園内に位置し、宮城県の名勝に指定されている[2]。 仙台弁の発音特性から「なるごきょう」と呼ばれることもある。 概要花渕山南山麓の中山平盆地と鳴子盆地の境界に位置し、大谷川の穿入曲流によって形成された[3]。深さ80-100mの断崖が、長さ4kmにわたって続き、狭いところでは幅10mの典型的なV字谷[1]、広いところでは幅100mのU字谷[2]となる。 白色の石英粗面岩質凝灰角礫岩[注釈 1]台地が侵食されて生じた奇岩に富み、立岩、衝立岩、獅子岩、仁王岩[1]、虫喰岩、九曜岩、烏帽子岩、天柱岩[2]などと呼ばれる。 地質鳴子峡の形成は最終氷期末の約1万年前以降に開始された[3]。 鳴子峡を構成する、集塊岩および凝灰角礫岩を含む鳴子峡凝灰岩は、中山平盆地と鳴子盆地の境界に主に分布し、これを砂礫層や泥炭層等を含む中山平湖成層[注釈 2]が不整合に覆っている。 大谷川が段丘面を形成した直後に、既存の流路を維持しつつ急速に下刻して、鳴子峡は形成された。付近一帯の隆起運動と鳴子峡を構成する凝灰岩の硬・軟部分が、中山平湖成層の堆積域と大谷川の流路及び下刻を支配してきたと考えられる。 人間との関わりの歴史近代・現代明治期の温泉案内に具体的な記述はなく「立石」として絵図に描かれる[4]。陸羽東線全通以降、大谷川上流の「立石の奇景」として紹介されはじめる[5]。大谷渓谷とも称された[6]。
観光一帯は落葉広葉樹林になっており、アカシデ、ミズナラ、ハウチワカエデなどが群生している。宮城県を代表する紅葉の名所として知られる[2]。 特に鳴子峡レストハウス付近は峡谷美と紅葉が楽しめる。紅葉最盛期の週末を中心に、駐車場待ちの自動車のため渋滞することがある。 かつて、鳴子峡の谷底には鳴子温泉側の大谷橋から中山平温泉側の鳴子峡レストハウスを結ぶ遊歩道があったが、2011年の東日本大震災で多くの区間が崩落し、以降はそれぞれの入り口から谷底までの折返しコースのみ利用でき、残りの区間は廃道状態となっている。 鳴子峡を含む荒雄川上流は鳴子温泉郷と呼ばれ、鳴子峡の上流側には中山平温泉、下流側には鳴子温泉や東鳴子温泉などの温泉街が開けている。 峡谷内の名勝
交通と歴史旧街道荒雄川(江合川)沿いには、少なくとも戦国時代末期から中山越出羽道(出羽海道)と呼ばれる街道が整備されていた。この街道は仙台藩(宮城県)の大和町と新庄藩(山形県)の最上町を結ぶもので、奥州街道から分岐して江合川に沿って遡り、堺田越で奥羽山脈をこえて最上川流域へ通じていた。この街道は最終的に最上川と西廻海運の水運によって大坂や江戸とを結ぶ交通路の一部を成していた[18]。 街道は江合川の左岸を登ってきて、大谷川との分岐点からは尿前(しとまえ)の関所・尿前宿を経て大谷川沿いに入っていた。鳴子峡の左岸の崖上は緩斜面が広がっており、街道はここに通じていた。平安時代末期の奥州合戦の際には奥州藤原氏がここに城柵を築き、交通の要衝を守備したと伝えられ、江戸時代中期の天明期にも遺構があったという。中世には大崎氏もここに館を築いていたと伝わる[19]。 この尿前宿・尿前関を古来から和歌に詠まれてきた「いはての関」に比定する説もある。松尾芭蕉の『おくのほそ道』や富田伊之の『奥州紀行』にも当地が描かれている。江戸時代初期には、かなりの難路だったために通行は多くはなかったが、中期以降はこの街道の利用客も増え、街道や駅宿、温泉が発展したと考えられている[19]。 鉄道鳴子峡にはJR東日本の陸羽東線が通じている。渓谷の両岸をトンネルが貫通しており、鳴子峡に面したトンネル同士が鉄橋で結ばれている。紅葉最盛期の昼間時間帯は、列車がこの鉄橋上で徐行運転を行う。 国道鳴子峡に沿って国道47号が通じている。 ギャラリー
アクセス
脚注脚注
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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