高見のっぽ
[2]、1934年〈昭和9年〉5月10日 - 2022年〈令和4年〉9月10日)は、日本の俳優、作家。京都府京都市右京区出身。 (たかみ のっぽ、以前の芸名: (たかみ えい)、本名: (たかみ よしあき)『なにしてあそぼう』(NHK教育テレビジョン、1966年 - 1970年)『できるかな』(NHK教育テレビジョン、1970年 - 1990年)にて、一切喋らないキャラクター「ノッポさん」を務め上げ、放送終了後も「ノッポさん」の愛称で親しまれた。 生涯生い立ち京都府京都市右京区太秦の役者長屋に生まれ、4歳から東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区)に育つ[3]。6人兄弟の第4子[3]。 父・嘉一(芸名は奇術師、俳優、工場長と様々な職業を経験し、太平洋戦争後、芸人に復帰した人物[3]。チャーリー・チャップリンの物まねを得意とし、京都のマキノ・プロダクションに俳優・柳妻麗三郎として在籍していた時期に嘉明が生まれた。 (やなづま れいざぶろう)、 (しょうきょくさい てんしゅう)、チャーリー高見など)は芸人、小学校4年のとき岐阜県羽島郡笠松町に疎開。笠松町立笠松小学校、笠松町立笠松中学校を卒業。岐阜県立加納高等学校に入学し[4]、高校2年までこの地で過ごす。帰京後、東京都立立川高等学校に転校し卒業。芸人であった父の影響で、芸で身を立てることを志す。 ダンサーからNHK番組へフレッド・アステアを尊敬し、ダンサーとして芸歴をスタートさせた。キャバレーの営業から始め、まもなく日劇ミュージックホールに出演するまでになったが[3]、その後が続かず、4年間ほぼ失業状態になり[3]、自殺を考えたこともある[5]。 25歳のときに心機一転して東宝ミュージカルスの研究生になるが、大部屋俳優に慣れてはいかんとほどなく脱退[3]。たまたまバックダンサーとして呼ばれたNHKの番組『不思議なパック』のプロデューサーに気に入られ、新しく始まる番組『音楽特急列車』の司会を任される[3]。番組は半年で終了したものの、NHKとのつながりは続き、番組の構成や振り付け、作詞などで様々な番組に呼ばれるようになった[3]。 「できるかな」のノッポ役に抜擢32歳のときに、NHK教育テレビ『なにしてあそぼう』(後に『できるかな』)のノッポさん役に抜擢される[3][6][7]。名前の由来は当時としては高身長だったことから[8]。4年続いた番組の後に始まった『できるかな』には当初出演していなかったが、視聴者からの要望で1年後に再び呼ばれ、レギュラーとなる[3]。 以後は一切しゃべらない(意思表示はジェスチャーだけの)キャラクターを演じ続け、国民的な知名度を得るに至った。『できるかな』のスタッフには「セロテープのノッポさん」という合言葉があった。不器用でセロテープを使いこなせなかったためである[6][7]。 『できるかな』の最終回(1990年3月)にノッポさんが初めて子供たちに語りかけたことは、当時の子供たちに衝撃を与えた。この最後の台詞はすべてアドリブであったが、放送終了後は街を歩いているといきなり大の大人が高見を見て泣き出すなど、反響の大きさに驚いたという[9]。 子供のことを『小さい人』と呼び、常に敬意を払って接している[10]。 放送作家・作家としてかつては放送作家としても活動しており、10年以上にわたり『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ)などの筆頭構成作家として台本を手がけた。 また、最初期のオリジナルソング「ぼくわるかった」「傷だらけのぼく」「シャワシャワシャワー」「雨のふる日はぼくゴリラ」「しんぞうのうた」「つみきのうた」「たまねぎにんじん」「おさんぽ」等の作詞も担当、楽曲を提供した。その関係もあり、後年イベントステージや放送で、フジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』とNHK総合・教育の『にこにこぷん』が局を超えた“夢の競演”を行った際、その橋渡し役をしたといわれている。詳細は別項参照。 『できるかな』放送終了後は、絵本・児童文学作家としての活動を主としており、50冊近くの著書を上梓している。高見ノッポ名義で著作することが多い。 グラスホッパー物語2005年12月からは、NHK『みんなのうた』において、初の短編ミュージカル映画形式の『グラスホッパー物語』を歌い、自ら脚本・作詞・歌唱・振付を手がけた。翌年DVD・CDで同曲をリリース。71歳にして歌手デビューを果たし、異例の10か月ロングラン放送を記録[11]。海外の映像祭でも評価を得て、文化庁メディア芸術祭で受賞。2006年の『第57回NHK紅白歌合戦』にも特別出演、続いて第58回放送文化賞の受賞へとつながり、幼児・児童教育の分野を中心とする長年の功績が称えられた。名義は高見のっぽ。 なお、上記の『グラスホッパー物語』を機に芸名を「高見のっぽ」「ノッポさん」にした。この反響を受けて、2007年4月には楽曲第2弾『ハーイ!グラスホッパー』を、『みんなのうた』で発表。 2013年より、自身が演出・選曲するひとり芝居「ノッポさんの宮沢賢治〜ぼくは賢治さんが大好き」公演をノッポさんの宮沢賢治制作委員会が企画・運営・開催。 死去2022年9月10日、心不全のため東京都内の病院で死去。88歳没。「人間というのは寿命がくれば、逝くのは当たり前のことだから、自分のことで周りのみなさんを悲しませたり、大切な時間を邪魔したくない」「周囲を騒がせたくない、死後半年以上伏せてほしい」という本人の希望から、訃報は翌年の2023年5月10日(高見の誕生日)に初めて公表された[12][13]。 人物かなづちであったが、50歳になり腹が出てきたので水泳を始めた。上達が早く(平泳ぎの蹴りが良いと言われた)、プロのコーチから無料でコーチすると申し出があったほどであった。薦められて1986年、日本水泳連盟マスターズ関東大会平泳ぎ25m部門に出場し、金メダルを獲得した。1987年にはマスターズ世界大会に出場、60人中14位であった。 相手の年齢や立場にとらわれず、周囲に敬意をはらう姿勢や、その優しい人柄は多くの人から愛されている。古家貴代美によれば、孔子を好んだといい、教えにならって質素な生活を心がけるようにしていた[14]。 麻雀が趣味で、晩年はMリーグを「今はこれしか楽しみがない」とぼやきながら楽しんでいたという[14]。 イギリスのロックギタリストジミー・ペイジと顔立ちが似ていることを、みうらじゅんが宝島社の「VOWでやんす」において、「ジミー・ペイジとノッポさんは同一人物説」のコラムで指摘している。 2010年9月7日、森永製菓「森永ホットケーキミックス」のウェブサイトにて、期間限定で同商品のイメージキャラクターを務めることが発表され話題を呼ぶ。森永製菓「森永ホットケーキミックス」では、ホームページにノッポさんからのメッセージムービーが見られた。また、期間限定コンテンツ「ノッポさんの親子でつくろう!ホットケーキ」[15]では、実際にノッポさんが子供たちと一緒にホットケーキ作りに挑戦したり、「小さいひと」の気持ちをよく理解するノッポさんだからこそ答えられるパパ・ママのお悩み相談室を毎月更新していた。 1934年生まれであるが、昭和九年会には不参加であった。 主な出演作品テレビ番組
テレビドラマ映画
広告その他
CD・DVD
著書
共著・翻訳
受賞歴脚注注釈出典
外部リンク |