高橋雅裕
高橋 雅裕(たかはし まさひろ、1964年7月10日 - )は、愛知県豊明市[1]出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)、野球指導者、野球解説者でもある。一時期「高橋 眞裕」と改名したこともある。右投げ右打ち(1993年ごろまでは両打ち)。 経歴プロ入り前名古屋電気高等学校[2]では2年生の時、1年上のエース工藤公康を擁し、二塁手として1981年夏の甲子園に出場[3]。準決勝に進むが、報徳学園の金村義明に抑えられ惜敗[4]。工藤以外の1学年先輩のチームメートに捕手の山本幸二と遊撃手の中村稔がおり、安達俊也は1学年後輩にあたる。翌1982年夏も県予選準決勝に進むが、野中徹博を擁する中京高に敗退、甲子園には届かなかった。 1982年度ドラフト会議にて横浜大洋ホエールズから4位指名を受けて入団。 プロ入り後1985年はイースタン・リーグで16盗塁を記録[1]。1軍では主に二塁手の控えとして24試合に出場[5]。1986年は加藤博一の故障により、2番打者としての出場が増える。俊足の持ち主で、犠打などの小技も巧みなことから、“ニュースーパーカートリオ”の呼び名もあがった[5]。 1987年には古葉竹識監督に重用され、遊撃手のレギュラーに定着。翌1988年に同じ遊撃手であった山下大輔がシーズン開幕前日に引退したのは、高橋のレギュラー定着によるものともいわれている。 1988年5月6日から1番打者として全試合に出場、打率.293(542打数159安打)という成績を残す。守備においては1988年から1989年にかけて、山下を超える遊撃手の連続無失策記録を樹立。1988年については、全試合に遊撃手として出場して失策7、守備率.989は全12球団の遊撃手でもっとも高かった。しかし1988年のセ・リーグ遊撃手部門表彰は、ゴールデングラブ賞が中日のルーキー・立浪和義、ベストナインも当時パワーヒッターとして活躍していたヤクルトの池山隆寛が獲得した。 1989年の開幕戦で連続無失策が記録が途切れると、昨年見せた堅守が一転し、この年は86試合で18失策を記録するなど、左肘骨折の影響もあって精彩を欠くプレーが多くなった。さらに翌1990年、監督が古葉から須藤豊に代わってからは、進藤達哉や石井琢朗など若手の台頭もあって出場機会が減少。以降は右打席に専念して代打や外野を含む守備要員となった。 1997年には千葉ロッテマリーンズへ移籍。ユーティリティープレイヤーとして主に内・外野の控えから犠打要員としてチームを支えた[5]。1999年シーズンを最後に現役を引退。 大洋での応援歌は童謡「グリーングリーン」からの採譜で、球団名が横浜ベイスターズに変わった際に別の曲となったが、ロッテへの移籍後に再び使用された。古巣ではその後、ライアン・グリンの応援歌原曲としても使用された。 現役引退後引退後はロッテで一軍外野守備・走塁コーチ(2000年, 2002年)、二軍外野守備・走塁コーチ(2001年)を務めた。2005年には新球団・東北楽天ゴールデンイーグルス一軍守備・走塁コーチに就任したが、1年で解任。楽天退団後はJ SPORTS・tvk解説者(2006年 - 2007年)を経て、2008年は横浜に一軍走塁コーチとして復帰したが、チームが最下位に低迷したため、1年で解任された。 横浜退団後は東北放送・STVラジオ・スカイ・A sports+解説者(2009年 - 2010年)を経て、2011年から韓国プロ野球・起亜タイガース守備コーチに就任したが、同年限りで退任した。2012年より東北放送・TBSニュースバード、2014年からTBSチャンネル2解説者に就任した。 2015年からベースボール・チャレンジ・リーグ、群馬ダイヤモンドペガサスの内野守備コーチに就任。2016年からは野手コーチとなり[6]、2019年に退任した[7]。 2023年11月1日、5年ぶりに群馬に復帰して監督に就任することが発表された[8]。 プロ野球マスターズリーグにも参加。2005年から2006年シーズンは札幌アンビシャスの一員としてプレーし、打率.657という驚異的な数字で首位打者を獲得。チームも優勝し、MVPに選ばれた。 選手としての特徴・人物俊足・強肩を生かした堅実な内野守備が最大の武器。打撃では犠打などの小技が巧みであった。守備では主に遊撃手を守ったが、1993年ごろからは外野手にも回り、常時4種類のグラブを用意するようになった。1994年には一塁手で出場し、捕手を除く全ポジションでの出場を果たしている[5]。 盗塁成功率は高かったものの、自分の走力だけを頼みに走る傾向があり、後に高橋は「もうちょっと自分の足に自信を持って、相手バッテリーの考え方が分かっていれば、もっと走れたと思う」と語っている[5]。 高校卒業後は社会人のトヨタ自動車へ進むことが内定していたが、ドラフト会議で大洋から4位で指名されると、嬉しさのあまり入団を即答したという[5]。 1994年の試合で急遽一塁手を守ることになり、ファーストミットを持っていなかったため、その場は外野手用のグラブで対応した。その後、ファーストミットを発注している[5]。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
登録名
関連情報出演番組
脚注
関連項目外部リンク
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