馬王堆帛書
馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ[3]、まおうたいはくしょ[4]、拼音: )は、馬王堆漢墓3号墓で発見された帛書。内容の分野は戦国時代から前漢初期までの政治・軍事・思想・文化・科学など多岐にわたり、また多くの佚書、伝世文献の未知の系統のテキストが発見された点からも、高い学術的価値を持つ[5][1][6]。 様式帛書の大部分は朱砂で幅 0.7-0.8 センチメートルの罫線を引いたのちに墨書されているが[7]、罫が無いものも一部ある[1]。字体は篆書と隷書があり[注 1]、篆書の写本は前196年(高祖11年)頃、隷書の写本は前180年(文帝初年)頃に行なわれたと見られる[1]。書の技巧的な品質にばらつきがあることから、同一人物が一度に書いたものではないと考えられる[1]。 内容12万字余にのぼり[2][8]多くには篇題が無かったが、復元・整理の結果、おおよそ28篇[注 2]が含まれていると考えられた[8][5]。それらは『漢書』芸文志の図書分類法に従って、次のように分類された[1]。
文献学的価値『周易』と『老子』以外は多くが古代の佚書であり[5]、伝来している書についても篇名や字句に相違が多く[6]、歴史学・哲学・文字学・訓詁学・音韻学など多方面に多くの研究資料を提供した[1][6]。また古代史の記述は古籍の校勘の根拠となりうるものである[1]。 主要な篇『周易』
『春秋事語』16章からなる。魯の隠公弑殺事件から晋の智氏滅亡に至るまでの春秋時代の故事物語を扱う[11][12]。人物の発言の記録に重点が置かれ、一章につき一つのトピックを扱い、国史や編年体の体裁はとらない[12]。内容の大部分は字句の相違はあるものの『春秋』三伝や『国語』に見られるものだが、今まで知られていなかった事柄も一部に含まれる[11]。 『戦国縦横家書』27章からなる。うち11章の内容は、戦国時代における縦横家たちの言説集であり[13]、現存の『戦国策』と『史記』にもほぼ同じ文章表現で見られるものである[13][11]。残りの16章は佚文であり、主に蘇秦の遊説活動について記している[13][11]。 『老子』甲本
『黄帝書』『老子』乙本の巻前に置かれていた、四篇からなる佚書である。いずれも当初からの篇名を有し、内容および書写当時の歴史的背景を踏まえ、一括して『黄帝書』(黄帝四経)と名付けられた[14]。
『老子』乙本甲本同様、「徳経」が「道経」の前に置かれている[6]。また章分けがされていない[14]。甲本と乙本を比較すると、章の順序は基本的に一致するが、わずかな違いが見られる[14]。現行本・甲本・乙本の三者で比較すると、それぞれで字句の相違が見られる[6]。 『刑徳』甲本・乙本・丙本兵陰陽家に属する内容であり、数種類の式盤図を含む[14]。丙本で四神に言及するくだりは『礼記』曲礼上の記述と似る[14]。 『五星占』天文星占に関する佚書であり[11]、本来の篇名は不明[15]。占辞[注 6]の各所に甘徳と石申からの引用が見られ、特に前者が多い[15]。五星の運行を記録したものとしては、中国に現存する最古のものであり[16]、篇の末尾には前246年-前177年の70年にわたる木星・土星・金星の位置が記され、またこれら3星の会合周期における動きが記録されている[15]。これらは古天文学にとって貴重な資料となっている[15]。 『天文気象雑占』天文気象に関する占いの書であり[11]、本来の篇名は不明[17]。350余条の占いが記され、全体にわたり気象による占いが中心だが、彗星や星の運行など天文現象による占いも見られる[17]。彗星の形を描いた図としては、世界で最も古いものである[16]。 『式法』かつては『篆書陰陽五行』と名付けられていた[18]。破損・断裂が著しく、2006年時点でまだ整理・修復が終了していない[18]。『天一』・『徙』・『天地』・『上朔』・『祭』・『式図』・『刑日』など7つの部分を含み、『式図』には式盤図が見られる[18]。 『隷書陰陽五行』内容の一部は上の『式法』に近いが、他に兵陰陽家の主張も見られる[18]。 『相馬経』相馬術書。隷書体で書かれた5,200字ほどの佚書[11][17]。今本『相馬経』とは全く内容が異なる[17]。 『五十二病方』中国で発見された最古の医方書であり[16][19][20]、本来の篇名は不明[17]の佚書[19]。
『胎産図』・『養生図』・『雑療方』いずれも佚書であり、本来の篇名は不明[21]。 『導引図』幅0.5メートル、長さ1.4メートルの帛に絵と文字で描かれている[20]。
『長沙国南部図』長沙国南部の地形を記している。図の範囲は現在の湖南省南部の瀟水流域とその周辺にあたる[21][16]。幅50センチメートルの帛を2枚つなぎ合わせた[21]、一辺96センチメートルの正方形で、縮尺17-19万分の1[21][16]。描写の中心となる部分では精度が高く、河川の屈曲もおおむね現在のものと一致する[21]。 『駐軍図』図の範囲は現在の湖南省最南部の江華ヤオ族自治県の沱江流域(上記『長沙国南部図』の東南部の一角[23])にあたる[16]。縦98センチメートル、横78センチメートル、縮尺8-10万分の1[16][23]。黒・紅・靛(濃青)の三色を使い、河川や山脈を薄い色で、軍の駐屯地や防衛境界線を濃い色で描いている[23]。加えて里の名と戸数、廃村らしきものも示され、当時の聚落の実態を知る貴重な資料である[6]。 釈文・訳注
参考文献
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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