子思子思(しし、紀元前492年 - 紀元前431年[1])は、中国春秋時代の儒者。孔子の孫。父は孔鯉(伯魚)。氏は孔、名は伋(きゅう)、字は子思、尊称は子思子。後世の儒教では道統の継承者で四聖の一人「述聖」として崇敬される。 生涯魯の人。幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はほとんどないが、曾子の教えを受け儒家の道を極めた。その後、各国を遊学したのち、魯の穆公に仕えた[2]。 著作『礼記』中庸篇(つまり四書の『中庸』)は古くから子思の作と伝わっていた[3]。また、子思の学派の著作に『子思子』があったとされるが散佚してしまった[4]。現代の推定では、『礼記』のうち中庸篇を含む四篇(中庸篇、表記篇、坊記篇、緇衣篇)が、『子思子』から転載したものとされる[4]。この推定は、『隋書』音楽志が伝える南朝梁の沈約の説に由来する[5][6]。 『子思子』の輯佚書に以下がある。
思孟学派『史記』孟子荀卿列伝などによれば、孟子は子思の学派から儒学を学んだとされる[7]。このことから、儒家内の子思と孟子の学派は思孟学派と通称される[8]。『荀子』非十二子篇では、敵対する思孟学派を非難する際に、「五行」説という邪説をといた学派として非難している[8][9]。ただし、『荀子』は「五行」説がどのような説かは述べなかった[8]。 20世紀末、新たに発見された出土文献(馬王堆帛書および郭店楚簡)の『五行』という文献が、その「五行」説について述べた文献と推定されて、思孟学派が注目されるようになった[8][10](内容は「木火土金水」の五行説とは異なるが、関連を指摘する学者もいる[8][11])。 なお、思孟学派に関する出土文献は他にも、郭店楚簡『性自命出』と上博楚簡『性情論』(どちらも内容が『中庸』や性善説と類似する)[6]や、郭店楚簡『魯穆公問子思』[12]がある。また、郭店楚簡や上博楚簡からは上記の緇衣篇とほぼ同じ『緇衣』が発見されている。 出典
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