香川良介
香川 良介(かがわ りょうすけ、1896年10月10日 - 1987年4月17日)は、日本の俳優。本名は山口 英雄(やまぐち ひでお)。別芸名に香川 遼(-りょう)。 舞台俳優を経て映画界に入り、戦前は片岡千恵蔵プロダクション・日活、戦後は大映・東映の作品に出演した名バイプレーヤーである。出演作品数は400本を超え、稲垣浩、伊丹万作、伊藤大輔ら多くの巨匠監督に起用された。テレビドラマへの出演も多い。長男は元子役の宗春太郎。 来歴・人物1896年(明治29年)10月10日、佐賀県杵島郡六角村(現在の白石町)に、父・乕一と母・りえの4男1女の長男として生まれる。生後まもなく父は屯田兵となり、北海道庁雨龍郡深川村(現在の北海道深川市)へ移住。深川小学校(現存)を卒業して芽室実業学校に入学し、1911年(明治44年)の卒業後は家業の材木商を手伝っていたが、舞台俳優を志すようになる[1]。1912年(明治45年)4月、角藤定憲一座に入り、のちに一座を主宰、大正期は舞台俳優として過ごしていた[1][2]。 1925年(大正14年)、帝国キネマ演芸に入社して映画俳優となる。当時の帝キネは内紛のまっただなかで、1月に芦屋撮影所を全従業員が自主退職してアシヤ映画製作所を設立し、5月に小阪撮影所では撮影所閉鎖、全従業員が一方的に解雇され、取締役同撮影所長立石駒吉が東邦映画製作所を設立、従業員を選別して採用した。香川は立石の東邦映画に採用され、6月1日公開の同社設立第1回作品で伊藤大輔監督の現代劇『煙』でスクリーンデビューした[1]。しかし、同社は賃金未払いのため同月内に解散したため、伊藤と行動を共にし、同年に伊藤映画研究所設立に参加し、連合映画芸術家協会との提携作『京子と倭文子』や『日輪』などに香川遼名義で出演するが、同研究所は挫折したため再び舞台に戻り、1927年(昭和2年)に一座を組織して台湾を巡業[1]。この時伊藤の依頼で失業中の伊丹万作を一座に加えていた[1]。 1928年(昭和3年)5月、片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションが創立され、帰国した香川は伊藤の推薦で伊丹、稲垣浩らと共に入社する。このとき従業員の全員が20代で、31歳の香川は最年長だった[1]。同社設立第1作の『天下太平記』に出演して以降、稲垣の『一本刀土俵入』『弥太郎笠』、伊丹の『仇討流転』『國士無双』、更に曽我正史監督の『愛憎血涙』、山中貞雄監督の『武道大鑑』『風流活人剱』など多数の作品に出演した。 1936年(昭和11年)、日活京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)1月には戦時統合で日活は大映に合併されるが、引き続き大映京都撮影所専属となった。1960年(昭和35年)に同社を退社してフリーになるが、その間に稲垣監督の『無法松の一生』、伊藤監督の『王将』、溝口健二監督の『雨月物語』、市川崑監督の『炎上』などに脇役出演した。一方、東横映画から東映の作品にも出演し、東映時代劇の全盛を支えた。東映時代劇が衰退してからは任侠映画にも出演している。晩年も現役として活動し、伊丹十三監督の『お葬式』等に出演した。 私生活では1925年3月に伊藤の従妹にあたるふみと結婚したが後に死別している。2人の間に3男1女がおり、長男の宗春太郎は子役として戦前中期に千恵プロ、日活、大映の作品に出演していたが、1961年(昭和36年)に死去した[1]。1945年(昭和20年)1月21日に一恵と再婚したが、1978年(昭和53年)に死別した[1]。 1987年(昭和62年)4月17日、急性心不全のため横浜市旭区の病院で死去[3]。90歳没。最後の映画出演は岡本喜八監督の『ジャズ大名』。 出演作品映画戦前太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
戦後
テレビドラマ
脚注外部リンク
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