原元辰原 元辰(はら もととき、慶安元年(1648年)- 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は惣右衛門(そうえもん)。変名は、和田元真、前田善蔵[1]。 生涯慶安元年(1648年)、米沢藩主・上杉綱勝家臣(馬廻り100石)のち大聖寺藩主・前田利治家臣(長松院付き)・原定辰[2]の長男として誕生。母は和田将監(小笠原家家臣)の娘。弟に和田喜六(母の実家・和田氏を継ぐ)と岡島常樹(赤穂義士)。 父・定辰は承応3年(1654年)頃に台所役人として不始末があって前田家を追放されて浪人するが[3]、延宝3年(1675年)、元辰は赤穂藩主・浅野長直に仕官し、後に弟の常樹も赤穂藩に仕えた。延宝7年(1679年)、赤穂藩士・長沢六郎右衛門の娘を妻に迎え、彼女との間に1男4女を儲けたが、元禄5年(1692年)に妻は双生児出産のために死去したという。後妻として水野七郎右衛門(姫路藩本多家家臣)の娘を迎えた。元禄6年(1693年)の分限帳には250石を受けており、元禄10年(1697年)8月14日、50石加増されて都合300石、また足軽頭に就任した。 元禄14年(1701年)3月14日、勅使御馳走役にあたっていた主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。事変が起きたときは伝奏屋敷に詰めており、伝奏屋敷からの退去の指揮をとり、浅野家の什器類を運び出した。その手際のよさに江戸幕府の目付は感心したという。その夜、大石信清とともに第二の使者として早駕籠で赤穂へ向かった。通常15日の道程を4日で走破し、3月19日、浅野長矩切腹の報を赤穂へ知らせた。家老・大石良雄は総登城を命じ、連日評定が行われた。評定は篭城討死か開城恭順かで対立し、元辰は開城恭順を主張して大石に異議を申し立てる家老・大野知房に詰め寄り退去させている。 赤穂城明け渡し後は大坂に住み、大石良雄の御家再興運動を補佐し、同年9月には仇討ちを主張する急進派を説得するため大高忠雄らと江戸へ下った。ところが逆に堀部武庸らに同調して急進派の中心となり、京都山科に赴き大石に仇討ちの決行を迫っている。なお、仇討ちを決行しようとしない大石に業を煮やした急進派は一時、元辰を旗頭に討ち入りを図ったといわれている。元禄15年(1702年)7月、幕府は浅野長矩の実弟・浅野長広の広島宗家永預けの処分を決め、御家再興の望みはなくなった。これを受けて、京都円山の会議にて大石は仇討ちを決定すると、同年10月に元辰は岡島常樹、間光延らと江戸へ下る。 12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、大石良雄を助けて司令にあたった。武林隆重が吉良を討ち取り、間光興が首をはねた。元辰は邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際は駕籠に乗せられている。 細川綱利屋敷へお預けとなり、世話役の堀内伝右衛門に「寺坂は討ち入り時には逐電して、逃げてしまった」[4]と寺坂が吉良邸には来なかった旨を述べている。 元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣増田貞右衛門の介錯により切腹。享年56。泉岳寺に埋葬された。法名は、刃峰毛劔信士。 子孫
遺品
創作・巷説仇討ちを決行しない元辰を老母が自害して諌めたという話がこんにちに伝わっているが、後世の創作である。史実における母(和田帯刀娘)は討ち入りに反対する和田喜六(元辰の実弟。母の実家・和田氏を継ぐ)を頼り、元辰のもとを去っている。 脚注
関連項目 |
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