願泉寺 (貝塚市)
願泉寺(がんせんじ)は、大阪府貝塚市にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は金凉山。本尊は阿弥陀如来。かつては本願寺派の本山とされたこともあった。 歴史起源は行基が建てたと伝えられる庵寺から始まり、本尊の阿弥陀如来立像も行基作とされる。天正15年(1587年)に書かれたとされる『貝塚寺内基立書』によると、応仁年間(1467年 - 1469年)に、行基菩薩の遺跡に本願寺の法主蓮如が逗留し、人々が集まったことが寺院の始まりとされる[1]。本資料は批判も多いが、貝塚御坊(本寺の前身)の設立が戦国期であることは間違いなく、織豊期から江戸幕府成立期にかけて発展したとみられている[1]。 天文14年(1545年)に地元の門徒が根来寺から右京坊(卜半斎了珍)を住持として招き、天文19年(1550年)に庵寺を再興させた、とされているが、それは後に卜半家が慶長15年(1610年)に行われた訴訟の際に作成されたものに書かれていることであり、どうやら実際には天文19年(1550年)に証如によって海塚坊(かいづかぼう)が作られたのが当寺の直接の始まりであるらしい。海塚坊は津田左衛門と堺の商人であるという雑喉屋藤右衛門が支えることとなった[2]。これによって浄土真宗本願寺派の貝塚道場が成立する。天文24年(1555年)には大坂本願寺下の寺内町として取り立てられている。 卜半斎了珍は佐野川卜半とも呼ばれるが、史料に現れるのは元亀年間(1570年- 1573年)となってからである[2]。 貝塚道場及び寺内町は、天正5年(1577年)の織田信長による雑賀攻め(紀州征伐)の際に織田信忠によって焼き討ちされて全焼した。 天正8年(1580年)、信長と和睦して石山合戦を終わらせた本願寺法主顕如は、復興中の貝塚道場を経由して紀伊国の鷺森御坊に移動し、本山を鷺森に移した。この年の内に了珍と門徒たちによって貝塚道場は復興をとげている。 天正10年(1582年)に羽柴秀吉から寺内諸役免許の朱印状が了珍に下付された。 天正11年(1583年)7月、顕如は貝塚道場へ移ってここを貝塚本願寺とし、新たな本山とした。天正13年(1585年)8月に本山が天満本願寺へ移るまでの約2年間、貝塚本願寺は貝塚御坊とも呼ばれて本願寺教団の一大拠点となった。 顕如が天満本願寺へ移る際、貝塚道場の留守居として津田左衛門を指名したが左衛門はこれを辞退したので代わりに了珍が留守居となっている[2]。 貝塚御坊は慶長12年(1607年)に西本願寺の准如から「願泉寺」の寺号を授けられている。なお、願泉寺は慶長7年(1602年)の本願寺東西分裂以降も江戸時代を通じて東西兼帯であり、両本山歴代門主の絵像を蔵している。明治以降も東西両本願寺に属していたが、1951年(昭和26年)の宗教法人法施行によって本願寺派寺院となり、現在に至っている。 卜半家2代の了閑は貝塚寺内の私領化を目論んだために住民の反発を招いたが、慶長15年(1610年)に行われた訴訟の結果、言い分が認められて徳川家康から寺内諸役免許の黒印状を下付されている。以降、慶応元年(1865年)には大坂町奉行支配となったが、実質的には1871年(明治4年)の上知令まで260年以上に渡って住持の卜半家が貝塚寺内の領主となって自治を行った。なお、慶長18年(1613年)には家康の指示によって貝塚寺内に3間幅の周濠が掘られており、大坂の陣においても徳川方に協力的であった。ただし、自衛機能は持たず、町の出入口に置かれた番所には貝塚寺内周辺の農村を藩領とする岸和田藩の足軽が詰めており、目と鼻の先に城下町を構える岸和田藩の監視機関となっていた。貝塚寺内北端の堀並橋から岸和田城下南端の寺前橋まで約700メートルほどしか離れていなかった。また、願泉寺の報恩講は大規模なもので、岸和田藩が願泉寺への参詣を控えるよう領民に触書を出して警戒するほどであった。 寛永13年(1636年)に寛永寺より金凉山真教院の山院号が下付される。なお、当寺は紀州藩主が参勤交代をする際に立ち寄り、宿泊施設として使用されている。 太平洋戦争中の1945年(昭和20年)7月10日の堺大空襲(第6回大阪大空襲)により、貝塚市も空襲されている。その際、当寺にも焼夷弾が落とされ、鐘楼が焼失している。 境内
文化財重要文化財
大阪府指定有形文化財
貝塚市指定有形文化財
交通参考文献
脚注注釈出典
関連項目外部リンク |
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