雲の上団五郎一座
『雲の上団五郎一座』(くものうえだんごろういちざ)は、1960年12月に初上演された舞台劇[1]。1962年に東宝系で映画化され、1965年・1978年・1979年にテレビ放送された。 2002年にはいとうせいこう、ケラリーノ・サンドロヴィッチが中心となり「空飛ぶ雲の上団五郎一座」を旗揚げした[2]。 2015年にはこの作品をモデルにしたジャニーズWESTによる舞台『なにわ侍 団五郎一座』が上演された[3]。 舞台1956年から東京宝塚劇場においてミュージカルスと称し菊田一夫原作・脚本の喜劇が上演されるようになり、1960年12月に公演された『雲の上団五郎一座』は大きくヒットした[1]。その後、『雲の上団五郎一座 ブロードウェイへ行く』、『雲の上団五郎一座 故郷へ行く』といった続編も上演された[4] 映画1962年4月15日公開[5]。宝塚映画製作。カラー。東宝スコープ。上映時間84分。映倫No.12753。 1963年7月28日には続編として『続雲の上団五郎一座』が公開された[6]。 雲の上団五郎一座キャスト
スタッフ
続雲の上団五郎一座キャスト
スタッフ
テレビ番組NET版概要
1965年10月1日から同年12月31日までNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送。放送時間は毎週金曜 20時00分 - 21時00分(日本標準時)。 榎本健一が座長を務める貧乏な旅回り一座「雲の上団五郎一座」による劇中劇を柱に、旅先でのハプニングを織り交ぜた喜劇として有名だが[要出典]、1962年・1963年に青柳信雄により映画化された後、その勢いに乗る形でスタートした番組である[要出典]。第1回放送は渋谷公会堂での録画中継、それ以降は日比谷芸術座等の劇場での録画というように、当時のテレビ局事情からしてスタジオの数が少なく劇場をスタジオ代わりにしていたこともあり[独自研究?]、客席に人を入れない非公開放送の形を採っていた。 往年のエノケンギャグの集大成とも言える番組であるが[独自研究?]、榎本は右足切断による車椅子生活を余儀された[要説明]ことにより、舞台でも車椅子もしくは座ったままでの演技が目立つようになった。かつてのはちゃめちゃぶりが発揮されず、番組は3か月で終了した。事実、番組後期はスローテンポなストーリーであった[独自研究?]。 出演者エピソード
番組スタート時の榎本は既に60代であったこともあり、視聴者の中には彼を知らない世代(特に若い世代)が半数[なぜ?]であったが、その世代を中心にエノケンギャグが再評価されるという現象が起きていたという[要出典]。 放送当時中学生だった志村けんは、厳格な父親がこの番組を見て笑いをこらえているのを目撃し、お笑いの道を志した[7]。そのことを、後年になっても周囲の人物に事あるごとに述懐していたという[8]。 日本テレビ版1978年12月28日に日本テレビ系列の『木曜スペシャル』で、『年忘れ!爆笑公演!笑いの大旋風!雲の上団五郎一座』として放送。東京・日本劇場12月爆笑公演『雲の上団五郎一座』から、劇中劇「お手狂香」「早まくり天保六花撰」「母恋三度笠」「弁天小僧女白浪」を中継録画で放送[9]。 出演者関西テレビ版
1979年12月30日に関西テレビ制作・フジテレビ系列の『花王名人劇場』で『年忘れ 雲の上団五郎一座』として放送[10]。 出演者
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脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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