陸奥按察使陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職である。しばしば陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち、みちのくいではのあぜち)とも言われた。720年頃に設置され、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した。他の地方の按察使が任命されなくなってからも継続したが、817年以降は中央の顕官の兼職となり、形骸化した。令外官で、属官に記事があった。官位相当は721年に正五位上、812年から従四位下と定められたが、実際の位階は従五位上から正二位までの幅があった。 陸奥按察使の成立→「按察使 (日本)」も参照
按察使は養老3年(719年)7月に、全国ではなく一部地域を対象に設置された。陸奥・出羽両国は含まれなかったが、間もなく任命されたことが『続日本紀』が伝える翌年の事件で知れる。すなわち養老4年(720年)9月28日に、按察使の上毛野広人が蝦夷に殺されたと陸奥国が報告した[1]。この時期の陸奥国は一時的に石城国、石背国、陸奥国に三分されていた。広人が「陸奥按察使」だったとは明記されないが、状況的に陸奥守の兼任で石城国と石背国を下におき、出羽国は含めなかったものとみられる[2]。 養老5年(721年)6月10日に按察使の位は正五位上相当と定められた[3]。陸奥按察使が出羽国を隷下におさめたのは同年8月19日であった[4] 対蝦夷戦争期次に名が上がるのは天平9年(737年)1月の大野東人である。彼は最初の鎮守将軍とも目される人物で、後世まで範とされる支配体制を陸奥・出羽に作り出した。大伴古麻呂は赴任前に橘奈良麻呂の乱に遭った[6]。次の藤原朝狩は陸奥に桃生城、出羽に雄勝城を築いて東北地方の軍事・民政を推進した。いわゆる38年戦争の時代には、大伴駿河麻呂、藤原小黒麻呂、大伴家持、坂上田村麻呂が活躍した。 按察使が任地に赴かず遙任する傾向は他国ではままみられたが、8世紀の陸奥按察使で赴任の用意がなかったのは藤原田麻呂だけである[7]。陸奥按察使は陸奥守か鎮守将軍と兼任することが多かった[8]。参議のような高官が特に下向することもしばしばであった。陸奥・出羽両国を軍事面で束ねる鎮守将軍とも兼任することが多かったが、別人が立つときには按察使のほうが上位であった。 弘仁年間の整備対蝦夷戦争が終結してから、東北地方では諸制度の整頓が進められた。その中で陸奥出羽按察使に関する規定は待遇改善の方向で改正された。 すなわち、弘仁3年(812年)1月26日に陸奥出羽両国按察使の位階が従四位下に引き上げられた[9]。同年4月7日の太政官符で、陸奥出羽按察使を護衛する傔仗を1人増やして4人にすることになった[10]。 対蝦夷戦争が収束してからもしばらくは、藤原緒嗣、文屋綿麻呂のような能力実績を買われての任命が続いた。両国の行政への積極的関与が見える最後の按察使は巨勢野足である。 遥任による形骸化弘仁8年(817年)の藤原冬嗣以降、陸奥・出羽両国経営に関わりがない高位の公卿が陸奥出羽按察使を兼任することが多くなった。官位は三位、二位、官職は中納言、大納言である。それとともに遙任が普通になった。陸奥国・出羽国は按察使を介さずそれぞれ中央に直接結びつき、両国の統一行政は行われなくなった。 この現実にあわせ、寛平7年(895年)11月7日には遙授の陸奥出羽按察使の傔杖が廃止された[10]。延喜式にも遙任の按察使に傔杖を与えないことが定められ、さらに与える場合にも太政官への申告を要することになっていた。 『延喜式』にはまた、按察使の公廨(公廨稲)が国守に准じ六分を給することが規定されている。季禄と衣服は陸奥国の正税を交易してあてることになっていた。 陸奥按察使に任命された人物
脚注注釈出典参考文献
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