藤原富士麻呂
藤原 富士麻呂(ふじわら の ふじまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、讃岐守・藤原村田の次男。官位は従四位下・陸奧出羽按察使。 経歴淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける[1]。天長10年(833年)春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位(仁明天皇)に伴い、従五位下・右近衛少将に叙任された。承和4年(837年)阿波介を兼ねる。 承和9年(842年)正月に従五位上に昇叙される。同年9月には伴健岑と橘逸勢が謀反を起こすが、右馬助・佐伯宮成と共に近衛兵を率いて、謀反人を包囲して捕縛に成功(承和の変)。この功労により、富士麻呂は正五位下・右近衛中将に昇進する。承和12年(845年)従四位下。 承和13年(846年)に陸奧出羽按察使として東北地方に下向するが、赴任にあたり清涼殿に招かれ仁明天皇から鄭重な恩詔を受け、被衣と綵帛を賜与された[1]。嘉祥2年(849年)冬に平安京に帰還するが、翌嘉祥3年(850年)春に背中に悪瘡を患い、2月16日に卒去。享年47。最終官位は陸奧出羽按察使従四位下。 人物若い頃から大学で学び、広く史漢に通じた一方、弓馬にも秀でた。性格は温雅であった。長く近衛府の武官を務めたが、よく士卒の歓心を得ることができ、仁明天皇から将軍としての才があると評された。死去の際、人々はみな悲しみ惜しんだという[1]。 官歴『続日本後紀』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注出典 |