藤原巨勢麻呂
藤原 巨勢麻呂(ふじわら の こせまろ)は、奈良時代の貴族。名は許勢麻呂とも表記される。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の五男。官位は従三位・参議。 経歴天平12年(740年)従五位下に叙爵。天平15年(743年)中宮亮に任ぜられ光明皇后に仕えると、以降天平17年(745年)従五位上、天平20年(748年)正五位下、天平勝宝2年(750年)正五位上、天平勝宝6年(754年)従四位下と、聖武朝後半から孝謙朝にかけて順調に昇進する。 天平宝字2年(758年)淳仁天皇が即位して、藤原仲麻呂(恵美押勝)の独裁体制が確立すると、仲麻呂政権の中核メンバーとして、同年従四位上、天平宝字3年(759年)正四位下・播磨守、天平宝字4年(760年)従三位と、急速に昇進を遂げる。天平宝字6年(762年)正月に仲麻呂の子・真先と共に参議に任ぜられる。同年11月には仲麻呂が計画した新羅征伐のため、香椎廟奉幣使となった[1]。 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱で仲麻呂側に加わったため、官軍により斬殺された。一説には天平宝字7年(763年)に死去したともされる[2]。 官歴注記のないものは『続日本紀』による。
系譜『尊卑分脈』による。
脚注参考文献 |