金田城
金田城(かねだじょう/かなたのき/かねたのき)は、長崎県対馬市美津島町黒瀬(対馬国下県郡)にあった日本の古代山城(分類は朝鮮式山城)。城跡は国の特別史跡に指定されている。 概要対馬島中央部、浅茅湾西側の外浅茅の南縁の城山(じょうやま、標高276メートル)の山上に築城された古代山城である[1]。飛鳥時代の天智天皇6年(667年)に築城された朝鮮式山城で、西日本各地に築城された一連の古代山城のうちでは朝鮮半島への最前線に位置する。近世期までに城の所在は失われていたが、1922年(大正11年)・1948年(昭和23年)の調査で比定が確定され、1985年度(昭和60年度)以降に発掘調査が実施されている[1]。 城は城山の急峻な自然地形を利用して築造されており、城山の東斜面において城壁とともに城門・水門・掘立柱建物跡の構築が認められる。特に城壁としては約2.8キロメートルにもおよぶ石塁が全周し、他の古代山城が土塁を主とするのとは性格を異にする。また掘立柱建物跡の遺構から防人の居住が示唆されるほか、出土品の様相からは奈良時代までの廃城化が推測される。古代の対朝鮮半島の最前線としての重要性、また遺構の良好な遺存状況と合わせて、文献上では知られない当時の防人配備の実情を考察するうえでも重要視される遺跡になる。 城跡域は1982年(昭和57年)に国の特別史跡に指定されている[2]。 歴史古代
文献上では『日本書紀』天智天皇6年(667年)条[原 1]において「築倭国高安城。讃吉国山田郡屋島城。対馬国金田城」として、同年に高安城・屋島城ともに金田城が築城されたと見える[4]。 『日本書紀』によれば、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで倭軍が唐・新羅連合軍に敗北したのち、天智天皇3年(664年)[原 2]に大宰府の防備を固めるために対馬島・壱岐島・筑紫国等に防人・烽が設置されるとともに筑紫に水城が築造された。次いで天智天皇4年(665年)[原 3]に答㶱春初の指導で長門国に城が、憶礼福留・四比福夫の指導で筑紫国に大野城・椽城が築造されたのち、前述の天智天皇6年(667年)に高安城・屋島城・金田城の築造に至っている[4][3]。以上から、白村江の戦いの敗北を受けて防衛態勢が整備され、その一環の対朝鮮半島への最前線として金田城が築城されたことが知られる[5][4]。 城域での発掘調査によれば、7世紀中頃に築城されたのち、7世紀末頃に修築、8世紀初頭以後には廃城化したと推測される[6][7]。文献上では奈良時代にも壱岐国・対馬国に防人が配置されたことが知られるが、上記の事実から同時期の金田城には防人が駐屯していなかったことが示唆される[7]。その後の経緯は詳らかでない。 中世中世期には、嘉吉元年(1441年)・享徳2年(1453年)に城山の木の伐採を禁じた文書が見える[4]。特に前者では黒瀬の平左衛門尉に対して命じられているが、この平左衛門尉こと平山氏は俗に城山の番人と称されたという[4]。 近世近世期には、所在不明の金田城について対馬市厳原町佐須の金田原に比定する説が有力であった[3]。これに対して、対馬藩の儒学者の陶山訥庵は『津島紀略』において城山説(現在地)を挙げている[3]。なお佐須説については現在までに遺構の存在は知られていない[8][5]。 また『津島紀略』では、天智紀山城とする説のほかに神功皇后の新羅征伐時の城とする説も挙げる[4]。類似の説として藤斎延の『本州武備談』、藤定房(藤斎延の子)の『本州編年略』、藤仲郷(藤斎延の孫)の『武本談』、『津島紀事』では仲哀天皇の築城とする説を挙げている[4]。『楽郊紀聞』では、黒瀬村城山に木戸が3箇所ある旨、三ノ木戸辺りの石垣が巨石である旨、平山伝吉が城山預役である旨が見える[4]。 江戸時代後期には対馬近海に外国船が出没するようになり、対馬藩は寛政4年(1792年)に沿海地図を作成するとともに要所に遠見番所を設置し、寛政10年(1798年)に『海辺御備覚』を作成している[4][3]。『海辺御備覚』には城山・貝鮒の陣構えが明記されており、この頃に金田城の修築がなされたと見られる[4][3]。 近代以降近代以降については次の通り。
遺構金田城の所在する城山は、白嶽(標高519メートル)から北へ延びる白岳石英片岩の岩脈から形成される[1]。城山の三方は海に囲まれ、陸続きの南西側も急峻な地形をなす[3][1]。また山上から北西方向には朝鮮半島が眺望可能であるため、守りやすく見張りにも適した立地になる[3][1]。 城は城山の東斜面に構築され、谷を取り込むように石塁を構築した「包谷式山城」になる[3]。北側から西側にかけては城山の断崖を利用する[3]。城域面積は約22ヘクタール(0.22平方キロメートル)を測る[3]。なお史跡指定範囲は半島全域におよび、約240ヘクタール(2.4平方キロメートル)を測る[3]。 城壁城壁としては石塁の構築が認められており、石塁の総延長は約2.8キロメートルにもおよぶ[3]。多くの古代山城が土塁を主とするのに対して、城壁のほぼ全てが石塁で構築されている点で特色を示す[3][1]。石塁は低い箇所で2-3メートル、高い箇所で4-5メートル、谷部で6メートルを測る[3]。土塁は1ヶ所数百メートルでのみ確認されている[1]。 また一ノ城戸北部・一ノ城戸南東部・城域南端(東南角石塁、北緯34度17分56.12秒 東経129度16分41.87秒)では、石塁の張り出しが認められる[3]。この張り出しは防御機能を高めた技術で、朝鮮半島では「雉(ち)」・「雉城(ちじょう)」と呼ばれる[3]。類例は鬼ノ城(岡山県総社市)の角楼でも知られる[3]。
城門・水門城壁に開く城門としては3ヶ所(二ノ城戸・三ノ城戸・南門)が、水門としては2ヶ所(一ノ城戸・三ノ城戸)が認められている[3]。
以上のほか、ビングシ山鞍部の土塁においてビングシ門が認められている(後述)。
ビングシ山鞍部城山の東側、二ノ城戸と三ノ城戸の間には「ビングシ山」と称される小峰があり、ビングシ山・城山の鞍部(ビングシ山鞍部、北緯34度18分4.83秒 東経129度16分44.69秒)は金田城において中枢的機能を担ったとされる[3]。城内では最も早く、1993年(平成5年)以降に発掘調査が実施されている[3]。 ビングシ山鞍部は城内で最も広い約20メートル四方の平場を形成しており、これまでに門(ビングシ門)・土塁・掘立柱建物跡3棟・柵列跡が認められている[3]。土塁(南土塁・北土塁)は鞍部を防御するように弧状に構築される[3]。土塁の断ち割り調査では二重構造と認められており、ある時期に拡張されたことが知られる[4][12]。土塁に開かれたビングシ門では石英斑岩の礎石1個が認められているが、対になる礎石は失われている(現地では複製を展示)[12]。また掘立柱建物は1間×3間の小規模な建物であるが、炉遺構が認められており、防人の詰所・宿所の可能性が指摘される[3][13]。
その他城山山頂は「火立隈(ほたてぐま)」とも称され、その名称から烽の設置が推測されるが、遺構は検出されていない[4]。 一ノ城戸付近には、大吉戸神社(おおきどじんじや、大吉刀神社、旧村社、北緯34度18分13.97秒 東経129度16分52.06秒)が鎮座する。金田城の鎮守として祀られたと推測され、「きど」の読みとの関連性も指摘される[4][14]。『日本三代実録』貞観12年(870年)条[原 4]に従五位下から従五位上に昇叙されたと見える「大吉刀神(大告刀神)」に比定する説があるほか[注 1]、中世頃以降は「城八幡宮」として変遷している[14]。
出土品城域からの出土品としては須恵器・土師器・鍛冶関連異物・温石等がある[6]。須恵器の様相によれば、金田城は7世紀中頃に築城され、7世紀末頃に修築されたと推測される[6][7]。 なお、前述の大吉戸神社では城山出土という弥生時代の広形銅矛7本が伝わっており、長崎県指定有形文化財に指定されている[15]。 文化財国の特別史跡関連文化財
現地情報所在地 交通アクセス 関連施設
周辺
脚注注釈
原典 出典
参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
関連項目外部リンク
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