憶礼福留憶礼 福留(おくらい ふくる、生没年不詳)は、百済の官吏あるいは武人。官位は達卒。故国の滅亡に伴い、白村江の戦いの後に倭国(日本)へ亡命した。 記録氏の「憶礼」は憶頼とも表記され、意味は百済の聖地を指すとされるほか、百済の雅称である「意流」・「尉礼」・「意呂」に由来するとの説がある。 『日本書紀』巻第二十七によれば、天智天皇2年(663年)9月24日(甲戌)、余自信、木素貴子、谷那晋首ら百済の民と倭の船師達と共に弖礼城に至り、翌日倭国へ向けて出航した。福留は兵法に詳しく、天智天皇4年(665年)8月には、同じく百済の遺臣で達卒の四比福夫と共に筑紫国に大野城と椽城(古代山城)を築いた。天智天皇10年(671年)1月には大山下の冠位を授けられた[1]。 一族には、天平宝字5年(761年)3月の記事にある憶頼子老がおり[2]、『新撰姓氏録』によれば近肖古王の孫にして、石野連の祖先とされる[3]。 脚注
参考文献
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