御所ヶ谷神籠石
御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)は、福岡県行橋市・京都郡みやこ町にまたがる御所ヶ岳(ホトギ山)[1]に築かれた、日本の古代山城(神籠石系山城)。城跡は1953年(昭和28年)11月14日、「御所ヶ谷神籠石」の名称で国の史跡に指定されている[2]。 概要御所ヶ谷神籠石は発掘調査の結果、古代山城であることが確定した[注 1][3]。しかし、日本書紀などの史書に記載が無く、築城主・築城年は不明である。663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗したことを契機に、7世紀後半頃に築かれたと考えられている[4][5]。 御所ヶ谷の山城は、京都平野(みやこへいや)の南側を東西に連なる馬ヶ岳連山の一角に築かれる[6]。周防灘に面した京都平野は、いち早く倭政権の勢力が波及し、4-7世紀にかけて豊前地方を代表する大型首長墓が築かれる。その後、8世紀に国府が置かれ、九州北東部の行政の中心地であった。また、山城の北麓に大宰府と豊前の国府を結ぶ官道が東西に貫き、南麓に豊前と筑前を結ぶ道が通る。そして、北方約7キロメートルに古代の要港の草野津が位置して、陸海交通の要衝であった[4]。御所ヶ谷の山城は、このころの周防灘沿岸地方の最大の遺構である[7]。 山城は、標高246.9メートルの御所ヶ岳(ホトギ山)から西側に伸びる尾根の約1キロメートルを底辺とし、北側の谷を頂点とする逆三角形状の北斜面領域に広がる。城壁の外周は、自然地形の崖を含めて約3キロメートルである[7]。外郭線が最も下る西門は標高65メートルで高低差が大きく、地形は起伏があり平坦地は少ない。そして、谷部には石塁が築かれた包谷式の山城である[4]。 土塁は2キロメートルで、概ね基底部の幅約7m×高さ約5m、壁面は70度-80度で立ち上がる。大半は内托式[注 2]の土塁で、積土の厚さ3cm-10cmの版築土塁[注 3]・花崗岩の切石列石・工事用の柱穴が検出されている。そして、全ての発掘調査区の列石が、版築土で覆われていた[4]。 城門は、中門・東門・第二東門・第二南門・南門・第二西門・西門の7か所が開く。中門と西門は、谷に築かれた大規模な城門で、他は稜線に築かれた小型の城門である。御所ヶ谷の山城を象徴する中門は、石塁の東寄りに幅は6mの門道を有する。西側の切石の石塁は、高さ7.5mで前面は二段に築かれる。上段は5m・下段は2.5mで、下段に排水溝を設けて水門(水口)を突出させる。石塁の長さは18mで、上面はアーチダム状に、ゆるやかに弧を描く[4][8]。この中門の水門は、石工技術を結集した神籠石の白眉とされている[6]。 城内の標高121メートルの尾根上に、一棟分の梁行3間×桁行4間の総柱礎石建物跡があり、列石が転用されている。眺望の良い城の中央に位置し、城内の各所との連絡が容易な場所であり、城跡遺構とされている[4][9]。 城内の馬立場(うまたてば)は、湿地の外側に石塁状の遺構がある。遺構が渓流を堰き止めているため、山城の貯水施設とされている[4][9] 。 中門の西側の城内で、長さ300メートルの未完成の土塁遺構が残存する。列石の多くが抜き取られているが、列石背面の版築層が確認されている。そのため、工事途中で計画が変更されたとされている[4]。 「御所ヶ谷」の地名は、景行天皇の熊襲征伐にあたり、この地に行宮がおかれたとの伝承による。城内に景行神社が鎮座する[6]。 2008年、神籠石を有する自治体が行橋市に参集し、「第3回 神籠石サミット」が開催された。2009年、「第4回 神籠石サミット」が久留米市で開催された後、他の古代山城を有する自治体が加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている[10]。 関連の歴史『日本書紀』に記載された白村江の戦と、防御施設の設置記事は下記の通り。
調査・研究遺構に関する内容は、概要に記述の通り。
現地情報御所ヶ谷神籠石(城)は、史跡自然公園「御所ヶ谷住吉池公園」として、駐車場ほかの便益施設が整備されている。遊歩道に沿って土塁・石塁などを見学することができる[9] 。 アクセス
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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