西夏語
西夏語(せいかご、英語: Tangut)は、西夏王朝においてかつて話されていたシナ・チベット語族の言語である。チベット語やビルマ語とは遠い親縁関係にあり、中国語とはさらに遠い親縁関係にある。 西夏語は11世紀はじめにタングート人によって建てられた西夏王朝(チベット語でミニャクと呼ばれ、漢字で「弥薬」と音訳される)の公用語であった。西夏は1226年にチンギス・ハーンの侵略によって滅亡した[2]。 西夏語は専用の書記体系である西夏文字を持っていた。 西夏語で書かれた現存するもっとも年代の新しい文献は1502年の紀年のある石幢であり、このことは西夏滅亡後300年近くたってもまだ西夏語が使われていたことを示唆する。 系統西夏語がシナ・チベット語族に属することは解読の初期から認識されており、特にロロ・ビルマ語群やチアン語群と近い関係にあることも早くから指摘されていた。より深い詳細な関係については、その後のチアン語群やギャロン語群そのものに対する研究の発展と並行している[3]。 Laufer (1916)は、西夏語と他言語の本格的な比較研究を初めて行い、ロロ語・ナシ語を西夏語と合わせて一つのグループとすることを提案した。この頃はまだ資料も歴史言語学自体の知見も乏しかったため、この論文で示されたデータは今となってはあまり有用ではないが[4]、シナ・チベット語族においてロロ・ビルマ諸語と西夏語が(中国語やチベット語などとの関係に比べれば)近い関係にあるという考え自体は今日ではより強固になっている(ビルマ・チアン語群)[5]。その後、例えば王静如 (1933)は西夏語とムニャ語やチアン語との関係を指摘し、Nishida (1976)は西夏語とトス語(アルス語群)の関連を指摘した。 孫宏開がチアン語群に対して継続的に研究を行い[6][7][8][9]、その過程で西夏語がチアン語群に含まれることを提案して以降、そのことはおおむねコンセンサスとなっている。孫宏開 (2001)とJacques & Michaud (2011)とで見解がおおよそ一致している部分の系図を以下に示す(どちらも西夏語をチアン語群内のやや曖昧な箇所に配置しているが、後者はプリンミ語が西夏語に最も似ているとも述べている)。
ギャロン語との関係ギャロン語群は、中国四川省西部の山岳地帯に分布する諸言語からなるグループである。 西夏語とギャロン語の近縁性を初めて提案したのはWolfenden (1931)である。彼は、西夏語のチベット文字による転写とギャロン語(より具体的にはスートゥ語に属するであろう方言)およびチベット文語の語彙を比較し、チベット文字が示す頭子音クラスターがギャロン語の形とよく似ていることを指摘し、西夏語話者が南方に逃れた末裔がギャロン語話者である可能性を提示した。しかし、この論文で示された類似のほとんどは実際には偶然の産物であり、現在では西夏語の系統の証拠とは見なされていない(具体的に言えば、引用されているチベット語文字転写の例のほとんどはg/dで始まるものだが、今日ではこのg/dは西夏語に存在する頭子音クラスターを表現したものではない考えられている[10])。 21世紀に入ってからギャロン諸語に対する多数のフィールドワークが行われたことで、より多くの証拠に基づいて西夏語とギャロン語との関係を研究することが可能となった。Jacques (2014)は、Jacques & Michaud (2011)による西夏語はプリンミ語に近いという考えを保持しつつも、西夏語とジャプク語との大規模な語彙比較を行い、特に西夏語の通時的音韻論を考察している。 Jacques et al. (2017, pp. 609–611)、Lai (2017, p. 10)、Gong (2018, p. 21)などは、トスキャプ語とホルパ語を他のギャロン諸語とは異なるグループとして分離しており、そのうちJacques et al. (2017, p. 611)は西夏語がホルパ語と共通の特徴を持つことにも触れている。その後Lai et al. (2020)は、このグループを西ギャロン語群(対照的にジャプク語やスートゥ語などが属するグループは東ギャロン語群)と呼び、共通する音変化・語彙・形態論・統語論を複数提示することで、西夏語が西ギャロン語群に属することを強く主張した。さらにBeaudouin (2023a)、Beaudouin (2023b)は、最新のホルパ語のフィールドワークのデータ(Honkasalo (2019)、Sun (2019)、Gates (2021)等)を利用し、語彙以外にも動詞の複雑な接辞パターンや名詞化辞・処格形態素に関する借用では説明が困難な特徴が一致していることから、西夏語は西ギャロン語の中でもホルパ語群に属するとしている。
こうした研究に基づけば、西夏語は次のように位置づけられる[14]。
発見・研究現代において西夏語の研究がはじまったのは20世紀のはじめにジョルジュ・モリスが西夏文法華経を入手したときにはじまる。そのテクストには誰によるものかは不明だが漢文で注釈がつけられていた。現存する西夏語テクストの大部分はカラ・ホトにおいて1909年にピョートル・コズロフが発掘したもので、その文書は西夏王国のものと判断された。アレクセイ・イワノヴィチ・イワノフ、石濱純太郎、ベルトルト・ラウファー、羅福萇、羅福成、王静如らが西夏語の研究に貢献したが、もっとも大きな貢献をしたのはロシア人の学者ニコライ・ネフスキー (1892-1937) であった。ネフスキーは最初の西夏語辞典を編纂し、数多くの西夏語の助辞の意味を再構し、西夏語文書を読んで理解することを可能にした。ネフスキーの学術的功績は没後の1960年になって「タングーツカヤ・フィロローギヤ」(西夏語文献学)の題で出版された。この著作にはソ連のレーニン賞が与えられ、没後にようやく評価された。西夏語の理解は今も完全というには程遠い。クセニヤ・ケピングによる『西夏語:形態論』( Тангутский язык: Морфология, モスクワ, ナウカ 1985)や、西田龍雄による『西夏語の研究』他によって文法が判明しているものの、西夏語の統辞構造は今もほとんど研究されていない。 カラ・ホト文書は現在サンクト・ペテルブルクのロシア科学アカデミー東洋文献研究所に保存されている。幸いにもレニングラード包囲戦でも失われなかった。ネフスキーが1937年に内務人民委員部に逮捕されたときに持っていた多くの西夏語文書はいったん失われたが、よくわからない経緯によって、1991年に戻ってきた[15]。東洋文献研究所は約1万巻の文書を所有し、大部分は11世紀中頃から13世紀はじめまでの仏典・法律・法的文書である。仏典のなかには漢訳やチベット語訳の存在しないものが最近になって多数発見された。ほかに儒教の古典や多くの西夏独自のテクストが保存されている。 数は少ないものの、大英図書館や北京の中国国家図書館、北京大学図書館にも西夏語文書のコレクションがある。 ニコライ・ネフスキーは西夏語の文法を再構し、最初の西夏語・英語・ロシア語辞典を編纂した。この辞典はネフスキーの論文とともに没後の1960年に『西夏語文献学』の題で出版された。ネフスキー以後、主に西田龍雄、クセニヤ・ケピング、龔煌城、М・ソフロノフ、李範文らによって再構が行われた。マーク・ミヤケは西夏語の音韻論と通時論に関する書物を出版した[16]。西夏語辞典は4種類が利用可能である(ネフスキーのもの、西田龍雄のもの(1966)、李範文のもの(1997、2008改訂)、エヴゲーニイ・クィチャノフのもの(2006))。 中国では西夏学が発展しつつある。主な学者には大陸では史金波、李範文、聶鴻音、白浜らがあり、台湾では龔煌城、林英津がある。中国以外ではロシアではクィチャノフとその教え子であるキリル・ソローニン、日本では西田龍雄や荒川慎太郎、米国ではルース・W・ダンネルがある。 音韻再構の資料西夏語は死語であり、また西夏文字は音素文字ではないため、その発音を直接観察することはできない。したがって、西夏語の音韻体系は現存する証拠をもとに再構される。研究者が再構に用いる資料としては主に、西夏語の音を外国の文字で示したり逆に外国語の音を西夏文字で示した転写資料、西夏語話者自身によって編纂された西夏語の韻書、西夏語に近縁の現代言語の発音、の3種類が挙げられる。 外国語資料外国語資料は大きく分けて、中国語との対応資料、チベット文字資料、サンスクリット語の音注資料の3種類が存在する[17][18]。 中国語との対応資料外国語資料で最も重要な資料は『番漢合時掌中珠』(西夏語名『𗼇𘂜𗟲𗿳𗖵𘃎𘇂𗊏』、通称『掌中珠』)である。『掌中珠』は1190年に骨勒茂才(𗥜𗱈𗧁𘞶)によって編纂された西夏語・中国語の二言語語彙集で、西夏語と中国語の同義語ペアが列挙されており、それぞれの西夏語の単語の横には漢字でその発音が転写され、中国語の単語の横には西夏文字でその発音が転写されている[19][20]。木刻本が4種類発見されており、ロシア科学アカデミー東洋学研究所に所蔵されている。景永時 & I. F. 波波娃 (2018)は『掌中珠』の本文を整理し、基礎的な研究と索引を付している。 『掌中珠』における漢字表記は西夏語の発音を非常に不完全な形でしか表現できていないが、西夏語研究の初期には資料が限られていたため、各西夏文字の発音として『掌中珠』における対応する漢字の発音がほぼそのまま利用されていた。特に、Ivanov (1909)は『掌中珠』から西夏語の基礎語彙と対応する漢字音をリストアップし、Laufer (1916)は『掌中珠』の漢字音データを用いて西夏語をロロ語やナシ語と近縁の言語と判断している。現在では、別の資料を併用することで不足を補うことができるようになった。 『掌中珠』以外の資料として、数は少ないものの、中国語の古典の西夏語訳版における固有名詞の音訳も西夏文字の発音を知る手がかりとなり得る。例えば龔煌城 (1991)は、西夏語訳『類林』における音訳の状況を研究し、西夏語の韻書には音訳や借用語ために特別に設けられた韻目があることを指摘した。 チベット文字資料西夏語で書かれた仏教経典の中には、西夏文字の横にその発音を示したチベット文字が付記されている写本が存在し、現在ロシア科学アカデミー東洋学研究所や大英図書館などに複数所蔵されている。これはNevskij (1926)によって初めて着目され、西夏文字334字ごとに意味・チベット文字による転写・漢字による転写・それらに基づく再構音を付した字書が編纂された。音素文字であるチベット文字の表記は、漢字表記に比べて西夏語の発音をより細かく転写しているため、Wolfenden (1931)や王静如 (1933)による比較言語研究の中心を担い、近年でも音韻再構の主要資料として研究されている(例えば荒川慎太郎 (1999))。最近、戴忠沛 (2008)はネフスキー以来の包括的な研究を行った。 なお、西夏語文献にはチベット語からの音訳や借用語も存在するが、これに関する研究はほとんど無い。 サンスクリット語の音注資料第三の外国語資料として、サンスクリット語の陀羅尼(仏教の呪文)の発音を西夏文字で記したものがある。特に居庸関#雲台にある石碑が有名で、西夏語の研究において最初に用いられた資料でもある。後の『掌中珠』や韻書の発見によって音韻研究の点におけるこれらの資料の価値は低下したが、最近でも孫伯君 (2010)、Sun & Tai (2012)、Duan (2014)などの研究がある。 西夏語の内的資料(韻書)西夏人は、当時の中国語音韻学(すなわち等韻学)の影響を受けて西夏語の音韻体系について詳細な分析を加えており、その成果である韻書は西夏語の音韻体系を再構する上で特に重要な資料である。 『文海』『文海』(西夏語名『𘝞𗗚』)は、羅瑞智忠(𗙴𗮖𘄡𗹐)らによって11世紀半ば頃に編纂されたと推定される韻書である。構成は中国の『切韻』を踏襲しており、まず声調によって2つの巻(平声と上声)に分けられ、各巻は韻によって細分化され、各韻目の中では同音の文字がグループ化されて記載されている。これに加えて『文海雑類』という3巻目があり、少数の文字が頭子音の調音方法によって並べられている。各西夏文字の説明は3つの部分からなり、『説文解字』のような文字の形の分析から始まり、その後に意味、最後に反切と同音の文字の数(小類の代表字のみ)が記載されている。第1巻(平声)と『雑類』の木刻本が発見されており、ロシア科学アカデミー東洋学研究所に所蔵されている。第2巻の木刻本は発見されていないが、『文海』の内容を写した手書き写本が発見されており、そちらは第2巻も現存している。ただし、手書き写本の方は各文字に対する説明がほとんどの場合省かれており、たまに一部分を抜粋したもの(文字の形の分析など)だけが記されている。現在では、木刻本を単に『文海』と呼び、写本を『文海宝韻』(西夏語名『𘝞𗗚𘏨𗖵』)と呼ぶのが一般的である。[21][22] 『文海』によって西夏語の韻のかなりの部分が明らかになった。さらにSofronov (1968)は、『文海』に収録されている文字に反切系聯法(陳澧が中古漢語の頭子音を同定するために考案した方法)を適用することで、西夏語の頭子音体系についても再構を行った。その結果の大部分は今日全ての研究者に受け入れられている[23]。史金波 (1983)は『文海』(刻本)の、李範文 (2006)と史金波 (2022)は『文海宝韻』(写本)の本文を整理して索引を付している。 『同音』『同音』(西夏語名『𗙏𘙰』)は、最初に令𠯿犬長(𗨞𘏻𗘂𗌰)と羅瑞霊長(𗙴𗮖𗿿𗌰)によって編纂された韻書だが、現存するのは後に兀囉文信(𗥺𗙴𘝞𘓟)など複数の学者によって何度か内容に手が加えられたものである。『同音』は頭子音の調音方法によって9つの章に分けられており、各章の前半では同音の西夏文字がグループ化されて記載され、各章の後半では同音の文字を持たない文字が記載されている。ただし、音声的には類似しているものの『文海』によれば実際には異なる音を持つ文字がしばしば同音とされていることがある。各文字に対する説明は、ほとんどの場合同義の文字か熟語を成立させる文字が一つ書かれているだけで、『文海』に比べて非常に簡潔である。複数の木刻本が発見されているが、大きく分けて2種類のバージョンがあり、義長(𗧘𗧬)による1132年10月15日の後書きがある版を「旧版」、梁徳養(𗃛𗣼𗋿)による序文がありおそらく1176年以前に編纂された版を「新版」と呼ぶ。旧版はロシア科学アカデミー東洋学研究所に所蔵されているほぼ完全な状態のものと、大英図書館に所蔵されている10文字程度の断片がある。新版は比較的完全なものから断片的なものまで10種類ほど発見されており、各地に所蔵されている。旧版と新版の内容の最大の違いは、旧版が声調の異なる文字も同音としてグループ化しているのに対し、新版は声調の異なる文字を異なるグループに置いていることである。[24][25] 『同音』は最初に研究された韻書であり、それまで個別の単語に対してのみ発音の再構が可能だったのが、この発見によって言語の音韻体系全体を視野に入れた再構を行うことが可能となった[26]。李範文 (1986)と賈常業 (2020a)は『同音』の本文を整理して索引を付している。 『五音切韻』『五音切韻』(西夏語名『𗏁𗙏𘈖𗖵』)は編者不詳の韻書である。表形式になっているため「韻図」と通称されるが、中国の韻図(『韻鏡』)とは構成がまったく異なる。『五音切韻』の冒頭には序文と『文海』の韻目一覧があり、それに続いて2種類の異なる表が記されている。それらの表のうち、「九音顕門」と題された前半部を「韻表」と呼び、「衆漂入海門」と題された後半部のみを「韻図」と呼ぶこともある。5種類の写本があり、全てロシア科学アカデミー東洋学研究所に所蔵されている。 韻表は、各行の先頭に中古漢語の三十六字母が記されており、その調音位置によって9つの表に分割されている。それぞれの表の最も左には行頭に「韻」と書かれた行があり、その下に『文海』の韻目から選び出された5つの韻が列挙されている。各セルには行頭の頭子音と最左行の韻とからなる西夏文字1字が記されている。韻図は、5行8列からなる表が105枚あり、各1枚が『文海』の1つの韻目(声調を区別しない)に対応している。上4列はおおむね1列目と3列目は開口音節の列、2列目と4列目は合口音節の列となっており、右から唇音・舌音・牙音・歯音・喉音の行になっている。これらの各セルに、対応する無声無気音の音節を表す西夏文字が代入される。下4列は中央の行のみを用い、5列目と6列目には中古漢語の来母と日母に対応する頭子音を持つ文字が記され、7列目と8列目にはその韻の平声韻代表字と上声韻代表字が記される。 西田龍雄は最初に『五音切韻』の集中的な考察を行った[27][28][29]。その後、李範文 (2006)と賈常業 (2020b)が『五音切韻』の本文を整理して索引を付している。張竹梅 (2021)も『五音切韻』の全てのページに注釈を加えている。 近縁の言語近年、Gong (2020)やBeaudouin (2023b)は、ギャロン語のデータを用いて西夏語の共時的状態に対していくつかの新しい提案を行っている。 音韻西夏語の音節は CV 構造をもっており、2種類の声調(平声・上声)のいずれかに属する。中国の音韻学に従って、音節を声母(音節頭子音)と韻母(それ以外)に分ける。 子音子音は以下の範疇に分けられる。
韻書では105の韻類を区別し、各韻が等・環・摂によって分類される。 西夏語の韻は三種類の環をもち、それぞれは西田によって(荒川・龔も同じ)「普通母音・緊喉母音・捲舌母音」と呼ばれている。龔の表記では普通母音を無表記、緊喉母音は下に点を置き、捲舌母音は後ろに -r を附加する。荒川も龔とほぼ同じだが、緊喉母音は -q を附加するところのみ異なる。 韻書では4つの等を区別する。初期の再構ではこれらが異なる音を表わすと考えていたが、三等と四等の区別が声母による相補分布をなすことが見出され、荒川や龔の再構では両者を区別しない。龔の再構では3つの等を V、iV、jV としている。荒川は V、iV、V: としている。 摂は同じ主母音をもつすべての韻の集合に相当する。 龔はさらに母音の長さに音韻論的意味があったとする。龔の示した証拠は西夏語に中国語にはない区別があったことを示すが、それが母音の長さの違いであることを示す積極的な証拠は存在しない。このため他の学者は龔の説を疑問としている。 母音
ミヤケは異なる再構を行っている。ミヤケによると、西夏語の95韻母は先西夏語の6母音体系から子音連結の最初の子音が脱落することによって発生したものである(かっこで示した2つの韻母は中国語からの借用語にのみ現れる。三等と四等は多くが相補分布を示す)
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク |
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