蕭宝巻
蕭 宝巻(しょう ほうかん)は、南朝斉(南斉)の第6代皇帝。明帝蕭鸞の次男。同母弟に蕭宝玄・蕭宝寅・和帝蕭宝融がいる。南朝斉の3人の廃帝の一人で東昏侯(とうこんこう)と呼ばれる。 生涯永明元年(483年)、西昌侯蕭鸞と劉恵端のあいだの子として生まれた。永泰元年(498年)、明帝の死去に伴い即位する。明帝の葬儀の際、太中大夫の羊闡が激しく慟哭するあまり、帽子が脱げて禿頭を露出させたのを見るや、大笑いしたという逸話が『南史』に伝わる。 即位後は明帝の遺命により皇帝の輔佐を命じられていた6人の重臣を殺害し、独裁体制を作ると奸臣を近づけ、民衆から収奪して享楽的な生活を送る暴君であったといわれている。内向的な性格であり、重臣との接触を避け、多くの宮殿を造営するなどして国家財政を破綻させた。また、通行人を馬蹄で踏みつける奇行があり、妊婦もその対象となり、母子共に命を落とす事件を頻発させた。後宮では幼馴染であった潘玉児を寵愛し、足の小さかった彼女のために庭園の歩道を黄金で作った蓮の花で敷き詰めその上を歩かせたという逸話が残されている[注釈 1]。『南史』斉本紀に、蕭宝巻は裸足の潘妃が金色の蓮の花の上を歩く姿に陶然となった、として故事「歩歩蓮華を生ず」の記載がある[注釈 2]。 このような皇帝に不満が続出し、心ある人々により諫言が行われるが、逆にそれが元で殺害される者もあり、陳顕達・裴叔業・崔慧景・蕭宝玄・張欣泰ら造反者が続出した。これらの反乱は同族である豫州刺史の蕭懿らの活躍により鎮圧されるが、これを妬んだ茹法珍らの讒言により、蕭懿に死を賜り自殺に追い込んだ。これに反発した蕭懿の弟の雍州刺史の蕭衍が、蕭宝巻の弟で荊州刺史の蕭宝融(和帝)に皇帝を称させ、蕭宝巻への涪陵王の降封を宣言して挙兵した[1]。この期に及んでも宮廷で享楽的な生活を送っていた蕭宝巻は衛兵の王珍国・張稷・張斉らに殺害され、首は蕭衍のもとに送り届けられた[2]。死後、諸侯に落とされて、前漢の海昏侯劉賀にちなんで「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。また、潘玉児も南朝斉滅亡後に処刑された。 南朝斉が滅亡した後の大通元年(527年)、弟の蕭宝寅が北魏に反乱を起こして自立、斉の皇帝を称した。 余話『水滸伝』や『金瓶梅』に登場する美女潘金蓮の名前は、潘玉児の故事に由来する。 宗室
脚注注釈出典
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