若杉要若杉 要(わかすぎ かなめ、1883年(明治16年)7月9日[1] - 1943年(昭和18年)12月9日[1])は、日本の外交官。駐アメリカ合衆国公使。 経歴熊本県出身。 1883年(明治16年)7月9日熊本市寺原町に生まれる。1900年(明治33年)熊本市立商業高校入学、1903年(明治36年)熊本市立商業高校(校名変更により熊本県立商業高校)7期生卒業。 1906年(明治39年)、東亜同文書院を3期生卒業し、外務書記生試験に合格した。1911年(明治44年)、オレゴン州立大学を卒業し、さらに1914年(大正3年)にはニューヨーク大学を卒業した。1917年(大正6年)、外交官及領事官試験に合格し領事官補となった。イギリス大使館三等書記官、ロサンゼルス領事、外務書記官第二課長、同第一課長、イギリス大使館二等書記官、同一等書記官、サンフランシスコ総領事、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官、上海総領事を歴任。1936年(昭和11年)、ニューヨーク総領事に任命される。 1940年(昭和15年)に退官したが、1941年(昭和16年)、特命全権公使としてアメリカ合衆国に派遣され、日米交渉にあたった。 『米国共産党調書』発行若杉はニューヨーク総領事として米国での反日宣伝活動を調べていくうえで(オシントも参照)、アメリカ共産党の存在に気づき、南京戦直前の1937年(昭和12年)11月26日、広田弘毅外務大臣宛に「事変に関する対日運動一覧表」の機密文書を送った[2]。文書は、支那事変以降露骨になっている米国在留中国人が在米中国大使館と連絡を取りながらの抗日運動(コミンテルン指令1937年および在華ソビエト軍事顧問団も参照)は、中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であって、米国世論を代表しているわけではない。米国を反日だと思い込んで、米国と対立したら中国とコミンテルンの思う壺だと訴えていた(ソ連スパイの工作および暴支膺懲も参照)[3]。 若杉は翌1938年(昭和13年)7月20日にも宇垣一成外務大臣に対して、米国内の反日宣伝(プロパガンダ)の実態を分析した報告書を提出、近衛内閣に対して、ソ連・コミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動[4][5][6]にのらないよう訴える(アクティブ・メジャーズおよび敗戦革命戦略も参照)[7]。 1939年(昭和14年)9月、若杉が総領事を務めたニューヨーク総領事館は、『米国共産党調書』を発行し、米国共産党による対米工作の実態をまとめ[8][9][10]、翌年7月25日に松岡洋右外務大臣に『米国内ノ反日援支運動』という報告書を提出した[11]。
(外務省『支那事変関係一件 第三十一巻』) 親族栄典
脚注
参考文献
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