聚楽
株式会社聚楽(じゅらく)は、東京都千代田区に本社を置く、レストラン・ホテルの運営を行う会社。加藤清二郎が1924年に創業。東京都内、とくに上野・神田周辺を中心に、レストランや外食店舗を展開するほか、伊東温泉や飯坂温泉など東日本を中心とした観光地でホテルを運営している。 概要加藤清二郎が1924年(大正13年)3月10日に東京・神田須田町の一角で「須田町食堂」を開店したのが始まりである[2]。 この店舗の開業当初は3銭・5銭・8銭の3プライス制を採用して「安くて早くてうまい」のキャッチフレーズを掲げた大衆食堂で[3]、「簡易洋食」を標榜して気軽に洋食が楽しめる店として人気を集めた[4]。 同年11月20日に東京・京橋に初の支店を出店したのを皮切りにチェーン展開を始め、1925年(大正14年)には日本橋・銀座・上野・浅草・神田駿河台にも出店し、1926年(大正15年)に神田淡路町に「神田須田町食堂総本部」を開設すると共に6店舗の出店を行った[5]。 1931年(昭和6年)に東京帝国大学第一食堂を開店し、同年には伊豆の伊東・辰太に温泉旅館を開業した[6]。 1934年(昭和9年)10月10日に東京市神田区淡路町2-9-2に資本金100万円で株式会社聚楽を設立し[1]、同月に新宿駅前に地下2階・地上5階建て・延べ約800席の食堂デパート聚楽として日本初の食堂デパートを開業した[6]。 同年には熱海の名門だった「樋口旅館」を買収し[7]、後の富士屋ホテルの場所に熱海聚楽として[8]温泉旅館を開業した[6]。
この様な出店攻勢により、1938年(昭和13年)には須田町食堂28店・食堂デパート3店・家庭寮2店・専用食堂15店のレストラン48店舗と温泉旅館2軒の合計50店舗を構え[11]、当時の日本では最大の食堂事業者となった[12]。 同年5月1日に東京市神田区淡路町2-9-2に資本金45万円で大日本食堂株式会社を設立した[13]。 1939年(昭和14年)に「花やしき」を買収し[14][15]、 同年2月21日に「合資会社花やしき」から「合資会社浅草楽天地」に商号を変更して[16]、「食堂遊園地浅草楽天地」として営業するようになった[17]。 しかし、入場料に加えて飲食料を支払う営業形態が受け入れられず短期間で再び閉鎖となり、1941年(昭和16年)6月に松竹が出資する「合資会社花屋敷」の運営による劇場遊園地として再開した[17]。 その後も出店を続けて1942年(昭和17年)には一般食堂35店舗と専用食堂54店舗の合計89店舗となり[12]、第2次世界大戦中は軍需工場の食堂運営を主力として活動するようになり[18]、1944年(昭和19年)1月11日に臨時資金調整法による認可を得て株式会社聚楽が大日本食堂株式会社を吸収合併し[19]、大日本食堂株式会社に社名を変更した[20]。 同年3月に熱海聚楽が類焼により全焼した[21]。 しかし、空襲により大きな被害を受け、終戦時には、専用食堂は全店舗が被災して消滅し、一般食堂も5店舗を残すのみとなった[20]。 だが、終戦直後から食堂・旅館の再建に取り組むと共に、食品製造や酒造、建築や木材加工などに進出するなど、急速な事業の復興・拡大を進めた[22]。 ところが、ドッジラインの影響で新たに進出した事業が全て業績悪化に陥り、ドッジライン後も利益を上げていた食堂・観光部門も食糧管理法の影響で業績が悪化してしまった[23]。 その結果、当時のグループ10社すべてが赤字となり、高利貸しからも借り入れるほどの経営難に陥り[24]、大日本食堂株式会社が手形を不渡りとすることで元利などの支払いを停止した上で銀行などを訪問して支払猶予の了承を求めた[25]。 そして、再建策として保有する不動産の売却を行う不動産部を設置し[9]、浅草の不動産や[9]熱海聚楽の焼け跡の富士屋ホテルへの売却を進めるなどし[8]、1948年(昭和23年)と1949年(昭和24年)の2年間で約1億6000万円の資金を調達して高利貸しからの借金を管財して再建のめどをつけた[26]。 1958年(昭和33年)の台風22号で伊東聚楽が被災して1階の客室と大風呂などが流出する大きな被害を受けた[27]。 1959年(昭和34年)10月に上野公園の西郷隆盛像の下に延べ約600席の「じゅらくティーサロン」を開店し、同店は当時の日本最大の純喫茶と呼ばれた[28]。 有限会社福島興産から[29]飯坂温泉の名門旅館「角屋」を買収して[30]1962年(昭和37年)4月8日に「飯坂ホテル聚楽」を開業した[31]。 同月に[32]資本金400万円で[29]有限会社ホテル聚楽を設立した[32]。 同年5月20日に[33]水上温泉に「水上ホテル聚楽」を開業[34]、同年6月に上越線での食堂車営業開始と同時に同線でビュッフェ営業と車内販売の営業を開始した[28]。 1964年(昭和39年)10月に大日本食堂株式会社から再び株式会社聚楽社名を変更した[35]。 1965年(昭和40年)8月に有限会社ホテル聚楽を株式会社ホテル聚楽に改組した[29]。 1967年(昭和42年)8月に「飯坂ホテル聚楽」を大幅に増改築して新装開業した[30]。 1968年(昭和43年)9月に株式会社ホテル聚楽が株式会社伊東ホテル聚楽を合併した[32]。 1974年(昭和49年)10月1日に新宿聚楽を改装してじゅらくエイトとして新装開店した[4]。 1981年(昭和56年)12月2日に[36]旧本社の[18]東京都千代田区神田淡路町2-9に「お茶の水ホテル聚楽」を開業した[36]。 沿革
事業展開飲食(直営)→現行の飲食店一覧はは、レストラン事業を参照
かつて存在した店舗第二次世界大戦前に存在した店舗須田町食堂
聚楽
専用食堂
旅館
第二次世界大戦後に開業した店舗飲食
旅館・その他
かつて存在した関連会社
関連会社CM1970年代から1980年代にかけてCM放送を行っていて、各地のホテル紹介と「遊びきれないホテルは聚楽」というCMソングの最後に、マリリン・モンローのそっくりさんスーザン・グリフィス(声は本家と同じく向井真理子が吹き替え)が出演して「じゅらくよ〜ん」というセリフがあり、話題を集めていた[102]。 脚注出典
広報など1次資料外部リンク |