米山恒治
米山 恒治(よねやま つねはる、1904年(明治37年)12月3日[2] - 1966年(昭和41年)6月5日[3])は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県議会議長。 経歴鹿児島県[3]鹿児島郡伊敷村(現在の鹿児島市[4])で生まれる[1]。13歳で父が死去して学校を中退[4]。鹿児島県庁の給仕となり、苦学して1921年(大正10年)鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)商業本科を卒業した[3][4]。 1940年(昭和15年)鹿児島県属に任官[3][4]。1942年(昭和17年)地方事務官に任官[3][5]。以後、鹿児島県経済部商工課長[5]、同軍需商工課長を歴任[3][4][5]。1944年(昭和19年)9月、岩切重雄鹿児島市長の要請をうけて鹿児島市助役となり1947年(昭和22年)3月まで在任した[3][4]。 1947年4月、鹿児島県議会議員に選出され、連続3期在任し、この間、同副議長[6]と同議長を2回務めた[3][4][6]。その他、鹿児島県食糧営団理事長、食糧配給公団鹿児島県支局長、鹿児島県町村合併促進審議会長、全国都道府県議長会地方制度調査会委員長、鹿児島県体育協会長、農林省畑地農業改良促進対策審議会委員、地方制度調査会委員などを務めた[3]。 1958年(昭和33年)5月の第28回衆議院議員総選挙で鹿児島県第1区から自由民主党公認で立候補して次点で落選[7]。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙に出馬して当選し[4][7]、衆議院議員に1期在任した[3]。自民党県連政調会長、同幹事長、同党県連相談役などを務めた[3]。1963年(昭和38年)11月の第30回総選挙に立候補したが次点で落選した[8]。 その他、鹿児島県食糧販売協同組合連合会長、鹿児島米穀社長などに在任した[3][4]。 脚注参考文献
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