福岡県立山田高等学校
福岡県立山田高等学校(ふくおかけんりつ やまだ こうとうがっこう)は、国道322号沿いの福岡県嘉麻市上山田1244番地5にあった男女完全共学の県立高等学校。地元では「山高(やまこう)」と呼ばれて親しまれていたが、福岡県立高校統廃合の実施に伴い2007年(平成19年)3月31日限りで廃校となった。 沿革旧制中学時代
新制高校時代
※1954年(昭和29年)4月1日 山田町は市制施行により山田市となる
校訓
校歌
1953年(昭和28年)に制定された[注 3] が、本校では開校時より応援歌[注 4] が存在し、学校行事等ではむしろ応援歌のほうがよく歌われていた。 概要石炭産業全盛期の山田高校は全国高等学校サッカー選手権大会の強豪として名を馳せ、1948年(昭和23年)の同大会では仙台育英学園高等学校や兵庫県立兵庫高等学校を破り準決勝まで進出した程である。また、勉学の面でも東京大学や京都大学、九州大学といった旧帝大や早稲田大学、慶應義塾大学をはじめとする難関私立大へ多くの合格者を輩出し、まさに文武両道の旧制中学だった。尚、当時の本校を卒業したOBには福岡県公立学校の校長経験者も多く[注 5]、福岡県教育委員会内には「山田高校閥(通称・山高閥)[注 6]」という派閥が近年まで存在していた。 1950年代末期に石炭産業は衰退し、それと同時に山田高校の所在地である旧・山田市の人口流出も激しくなったのだが、それでも九大には毎年10人前後の合格者を出していた。しかし、1972年(昭和47年)から実施された学区拡大(中学区制導入)に伴い、小学区制時代からの受験可能エリアであった旧・山田市や旧・嘉穂郡嘉穂町、同碓井町の中学生は筑豊地区最大の都市である飯塚市の福岡県立嘉穂高等学校や福岡県立嘉穂東高等学校を志願するようになり、山田高校の志願者は激減。1977年(昭和52年)からはほぼ毎年定員割れ状態となった。 1970年代は、時代的にも世の中が学生運動や「70年安保」「スト権スト」等で騒然としている中であったが、本校は日教組である福岡県高教組が強く、職員室には赤旗が掲示され「校長着任拒否闘争」「部落解放運動」等を推進していった。1971年(昭和46年)より実施された県教委の管理職登用試験を受けて赴任した校長を校門から入れない、校長として認めない運動(校長着任拒否闘争)や本校が初めて定員割れを起こした1977年(昭和52年)以降は入試における定員内不合格を許さない運動[注 7](部落解放同盟による運動)を展開するなどして教育活動が混乱する中で、賛否両論あったが地域住民の一部からは山高離れが加速度的に進んでいく事ともなった。 一方、筑豊地区に多い低所得世帯や生活保護受給世帯の学習不振児及び学習困難児を沢山救済する福祉的な存在となり、更には1988年(昭和63年)より開始された福岡県立高校全日制の欠員補充募集では県立高校全日制の本試験に失敗した受験生を毎年の様に受け入れた。平成以降ではLL教室を使用した社会人向けの学校開放講座が人気を呼び、伝統のサッカー部にもテコ入れが行われたが、一方では1980年代初めから毎年の様に閉校の噂が出ており、その対策として普通科英語コース[注 8] や同体育コース[注 9] の設置、後には中高一貫教育の導入を試みたが、いずれも実現しなかった。 高校コードについて本校の高校コード番号は40183であった。書類によっては5桁の数字の後にアルファベットが付いていたり、福岡県の都道府県番号である「40」と下3桁の数字(国立は001~、国立特別支援学校の高等部は051~、国立高専は091~、公立は101~、公立特別支援学校の高等部は441~、公立高専は491~、私立は501~から始まる。尚、閉校等は999)との間をハイフンで結んでいるケースも見受けられるが、コード番号自体は全て同じである。 設置されていた課程全日制課程(1943年 - 2007年) 全日制が山田町→山田市の普通部と大隈町→嘉穂町の工業部に分かれていた1949年度(昭和24年度)から1956年度(昭和31年度)を除いては普通科のみが設置されていた。団塊世代が在学していた1960年代中期には1学年8クラス・定員430名であったが、末期は1学年2クラス・定員80名足らずの規模となっていた。ちなみに本校最後の卒業生は42名だった。 定時制課程(1944年 - 1996年) 1944年(昭和19年)開校の山田工業学校を前身とする定時制は石炭産業全盛期に採鉱科・機械科・普通科の3学科を擁し苦学生(勤労学生)の強い味方となっていたが、時代の流れには逆らえず末期には普通科だけが存在していた。尚、山田高校定時制は最後の募集となった1993年(平成5年)に僅か1名の入学者を受け入れたものの、その生徒が中退したため閉鎖が1996年(平成8年)3月に繰り上がった。ちなみに定時制最後の卒業生は4名だった。 ※便宜上、学制改革が行われた1948年度(昭和23年度)より前に関してもここでは「全日制課程」および「定時制課程」として統一した。 受験可能エリアの推移※自治体名等は当時のものとする 旧制中学時代(1943年 - 1947年)および1948年
小学区制時代(1949年 - 1971年)
中学区制時代(1972年以降、山田高校の場合は2004年まで)
全日制課程の欠員補充募集について現在、福岡県内で「二次募集」と呼ばれている福岡県公立高校全日制欠員補充募集は福岡県教育委員会が1988年(昭和63年)より合格発表時に20名以上の欠員が出た県立高校全日制に対し「福岡県立高校全日制欠員補充募集」という名称で開始したものであり、第1回目は本校の他、嘉穂工業高校、福岡県立西鞍手高等学校、福岡県立田川農林高等学校、福岡県立八女農業高等学校、福岡県立大牟田南高等学校の6校13学科(募集定員は計530名)で実施された。 この補充募集の選抜方法は県立高校全日制の本試験で不合格となった受験生の結果が補充募集実施校に送られ、それを基に面接(一部の高校では作文も加わる)を実施して合否を判定するというものであり、これに関しては現在でも同一である。但し、県立高校全日制の本試験を受験して不合格となっていることが出願の絶対条件であり、本試験で不合格となった県立高校全日制の学科が補充募集実施校の補充募集実施学科であった場合の出願(早い話が同一高校の同一学科へ再度出願すること)や受験可能エリア(県立高校普通科の場合は原則として学区)外に所在する補充募集実施校への出願は現在でも福岡県内に8校ある市町立高校全日制[注 12] を含めて一切認められていない。1991年(平成3年)より市町立高校全日制の本試験で不合格となった受験生に関しても出願可能となり、1993年(平成5年)には補充募集志願者数及び志願倍率の公表を開始[注 13]。そして1994年(平成6年)に久留米市立南筑高等学校理数科が参加することによって現行名へ改称、また「欠員20名以上」という従来の基準も廃止[注 14] されて現在に至る[注 15][要出典]。 深刻な定員割れを起こしていた山田高校の場合はほぼ毎年この補充募集の実施校[注 16] となり、特に1989年(平成元年)から1996年(平成8年)までの間は1991年(平成3年)の188名を最高に毎回100名以上の補充募集定員を確保していたが、この制度のお陰で多くの本試験不合格者を救済することが出来た。この補充募集については賛否両論ある[注 17] が[要出典]、本校の属する筑豊地区では公立志向が他地域よりも高く[注 18]、それに加え山田高校受験可能エリアには一部を除いて住民税非課税世帯をはじめとする低所得世帯や生活保護受給世帯が多く存在しており(本校の授業料は他の県立高校よりも少し安く設定されていた[注 19] が、それに加え以前所有していたホームページでは前記世帯を対象とした授業料減免制度の紹介をしていた程であった)、実際1987年(昭和62年)以前に前記世帯出身の受験生が県立高校全日制の本試験に失敗した場合、残された選択肢は定時制の補充募集[注 20] か就職[注 21] だったのである[要出典]。 一時期は少子化による県立高校統廃合の影響で実施校及び実施学科が大幅に減少していたものの、2010年(平成22年)辺りからは再び増加傾向にある。ちなみに補充募集定員が歴代最多だったのは1994年(平成6年)の999名、学校及び学科単位では1992年(平成4年)における大牟田南高校普通科の271名であった[要出典]。 救済実績本校は三度の救済実績がある。
支援組織について本校の支援組織には、旧制中学時代からの同窓生による
といった事業を引き継ぎ1961(昭和36年)に発足した財団法人古峰会が存在していた。 古峰会は長きに渡り山田高校を陰から支えて来たが、本校の活性化計画「山高スピリット」に関連した支援では
などを行った。尚、古峰会は福岡県教育委員会が所管する公益法人であったが、本校の閉校に伴い解散した。 地域への貢献1992年(平成4年)より毎年秋に開講されていた学校開放講座「基礎英会話講座」は本校のLL教室を使用した社会人向けの講座だが、旧・山田市が一年契約で採用していたALT(外国語補助教員)を講師に迎えることもあって大変な人気があり、30名の募集定員に対して常に倍以上の応募が集まる程であった。尚、この成功によって現在は嘉麻市の一員である旧・嘉穂郡稲築町の稲築志耕館高校でも社会人向けの陶芸教室を、そして本校と歴史上姉妹関係にあたる嘉穂工業高校では親子向けの技術教室をそれぞれスタートさせており、いずれも高い支持を得ていた。また、1998年(平成10年)からは旧・山田市内の主要施設を花で飾る「山田高校フラワープロジェクト運動」の実施や校内を流れる小川にスポットをあてた「ホタル祭り」の開催によって地元住民との絆は一層深まっていった[要出典]。 山田高校が取り上げられている作品つかこうへいが本校の生徒であった[注 24] 1960年代中期の入試競争倍率(大幅に緩和されていた)や当時としては珍しく男子生徒の長髪が許されていたという校則を懐かしんでいる一方でエネルギー革命による石炭産業の衰退が当時の山田高校に与えた影響とそれによる在校生の心の変化をやや悲観的に描いている。尚、当時の山田高校でも男子生徒の殆どが「サユリスト」であり、つか自身も本校在学中に出会った書物の中で一番感動した作品が『愛と死をみつめて』であることを語っている[要出典]。 著名な卒業生
利用されていた交通機関最末期における本校最寄りの交通機関は であった。以前は本校のすぐ傍に西鉄の山田高校バス停[注 25] があり、旧・嘉穂郡嘉穂町の中心部や奥地[注 26] からの生徒輸送をメインとしていたが、2004年(平成16年)3月31日をもって路線・バス停共に撤退した(撤退後は嘉穂町バス→嘉麻市嘉穂バスが代替)。尚、1988年(昭和63年)8月31日までは本校から徒歩で10分程の位置に九州旅客鉄道(JR九州)上山田線の上山田駅が存在し、数多くの本校出身者が上山田線と共に青春時代を過ごした。 廃校本校は1977年(昭和52年)よりほぼ毎年定員割れが続いており、1980年代からは毎年の様に閉校の噂が出ていた。その為に本校の関係者と所在地である旧・山田市が一体となって1995年(平成7年)よりかつて名門として知られたサッカー部の強化や全寮制中等教育学校(中高一貫教育)への転換といった活性化計画「山高スピリット」を打ち出した。 前者については県大会新人戦において2000年度(平成12年度)にベスト8入り。2001年度(平成13年度)には準決勝まで進んだ。特に2000年度(平成12年度)に関しては筑豊地区予選で対戦した7校の内、6校に対して完封勝ち。決勝トーナメント最後の相手であった嘉穂高校に対しても7対1と圧倒的強さを見せ、サッカー部への入部希望者も増加した[注 27] ものの、学校存続には結びつかなかった。 また、後者の場合は旧・山田市内に用地まで確保し、所在地である旧・山田市はもちろんのこと小学区制時代からの受験可能エリアであった旧・嘉穂郡嘉穂町や同碓井町のほか、国道201号八木山バイパスの起点である福岡都市圏の糟屋郡篠栗町にも本校への一貫教育誘致をPRする看板を建てていたのだが、最終的にその夢は自由民主党の代議士であった古賀誠の推す八女郡黒木町(現・八女市)の福岡県立黒木高等学校[注 28](福岡県立輝翔館中等教育学校[注 29] へ転換)によって奪われ本校関係者及び地元住民の願いは届かなかった。だが、本校の属した筑豊地区では飯塚市の日新館高等学校が飯塚日新館中学校を設置して一貫教育に乗り出したものの僅か10年弱で終止符が打たれた[注 30] という前例があり、その為に同じ飯塚市の近畿大学附属福岡高等学校が一貫教育の導入に対して慎重な態度を取っている程である[注 31][要出典]。 本校は2007年(平成19年)3月31日限りで廃校となったが、最終年度となった2006年度(平成18年度)には西日本新聞(筑豊版)で本校に関する記事が頻繁に掲載された。最後の卒業式については、本紙の夕刊(福岡版)をはじめ讀賣新聞(筑豊版)や毎日新聞(筑豊版)でも写真付きで紹介されていた。
筑豊地区では本校を含めて6校の県立高校(嘉飯山地区3校、田川地区3校)[注 33] が廃校した。 廃校後の主な動き
各種証明書の発行先〒820-0607 福岡県嘉穂郡桂川町大字土師1117番地の1 福岡県立嘉穂総合高等学校 内 脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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